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第256話
「うはぁ…おはようございます」
あぁ眠い。
身体がダルい。
今朝はもう、寝癖を直す気力もなく、俺はやって来た迎えの声にフラフラと玄関に出て行った。
「あれ?今日は真鍋さんなんですか?」
火宮は先にとっくに出勤して行ったから、真鍋もそれと一緒だと思っていたけど。
ピシリと決めたブラックスーツで目の前に立っているのは、相変わらず感情の窺えない無表情の幹部様だ。
「はい。ちょうど学校と同じ方向に所用がありますので。それからいくつか連絡も」
「連絡?」
とりあえず時間が押しているので、俺は靴を履きながら真鍋を見上げた。
「その前に翼さん。ワイシャツのボタンは上まで止めて、ネクタイもきちんと締めて下さい」
「えー」
面倒くさいというか、窮屈というか。
少々着崩したくらいで口煩い…。
「さすが、火宮さんいわく小舅ですね…」
まぁ真鍋から見たらだらしがなくて気になるのかもしれないけど。
「はぁっ。恥をおかきになりたいのでしたら、別にそのままでも構いませんが」
真鍋がふっ、と冷たく目を細める。
だけどその発言はさすがに大袈裟過ぎはしないか。
「別にネクタイがユルユルなくらいで恥とか」
誰も思わないだろう。
あぁ面倒くさい。
真鍋の言葉を適当に聞き流していたところで、エレベーターに乗り、一階についていた俺はエントランスに出た。
「着方の話ではありませんよ」
「へ?」
トンッ、と自分の鎖骨よりやや中心寄りの胸元を指で叩いた真鍋に首が傾いた。
「鏡をお持ちいたしましょうか?」
スッ、と車にエスコートしてくれながら、真鍋が冷たく笑う。
その呆れた視線と言葉から、ハッと何を示されているのかに気がついた。
「まさか…」
「えぇ、会長の所有印ですね」
「っ!」
シラッと言われた言葉を聞き、車内に乗り込んだ俺は伸び上がってバックミラーを覗き込む。
そこに映し出されたのは。
きちんと制服を着ていれば見えない、けれどボタンを2つ開け、ネクタイを緩めた状態ではちょうど目に触れる絶妙な位置にある、赤い鬱血痕だった。
「っ、バカ火宮ーっ!」
思わず叫んだ言葉に、運転手の顔が全力で引き攣り、真鍋のほら見たことかと言わんばかりの、冷たい冷たい視線が向いた。
「はぁっ。そういえばつけてたな…」
昨夜、今日のこの身体のダルい原因を作ってくれた火宮が、何やらブツブツ言いながら、胸元にきつく吸い付いていたことを思い出す。
渋々ボタンを首元まで止めて、ネクタイを固く締めながら、俺は深い溜息をついた。
「友人を作って仲良くするのはいいが、隙を見せたり油断したりして悪い虫を寄せ付けるな、とか何とか…」
かなり馬鹿げた台詞を吐いていたような気がする。
「もし俺以外の誰かと何かがあったら、おまえも相手も無事でいられると思うなよ、だっけ?」
そもそも学校に行って勉強をしてくるのに、何かって、何があると思うのか。
「本当、ちょっと制服を着崩したくらいで、何だっていうんですかね」
「ご自分の魅力と色気にご自覚があられないところが大問題ですね」
「は?」
「本当に…隙をお見せになって同級生を誘惑し、襲われないで下さいね」
会長がキレるどころじゃ済まないって…。
「何言ってるんですか?」
この人まで。
火宮も火宮なら、真鍋も真鍋でなんの心配をしているのか。
さっぱりわけがわからない俺は、ポカンと口を開けるしかなかった。
「はぁっ。これでは会長がご心配なされるのも分かります。とにかく翼さん、油断だけはなさいませんよう」
「はぁ…」
わけがわからないながらも、真鍋の真剣な眼差しに気圧され、俺は反射的にコクンと頷いてしまう。
「よろしいでしょう。それでは連絡事項ですが」
「あ、はい」
そういえば今日真鍋が来たメインはそれだった。
何だろうと身構えた俺に伝えられたのは、今日から始まる昼食の件と、お小遣いを渡されることについての話だった。
内容はなんてことはない、学食を利用する際は小遣いからお金を使い、足りなくなったら火宮でも真鍋でもいつでも請求しろという話。
売店や学内のカフェを使う際も同様。
弁当がよければその手配もできるということだった。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
「あ、ありがとうございます。行ってきます」
パッと見、品のいい執事。
丁寧に頭を下げる真鍋にエスコートされ、俺はどこの御曹司だよ、といった様子で、校門前に横付けされた車から降り立つ。
他にもこういう生徒はいるらしく、またか、といった感じで流されていく視線に安心するはするけれど、やっぱりこの扱いは慣れなくて。
「うぅ、居た堪れない…」
本当はど庶民の俺なのに。
あぁ社長令息だ、と思われて向けられる視線が痛い。
俺はそっと鞄を胸に抱えながら、コソコソと足早に校舎内に向かった。
ちょうど教室に辿り着いた瞬間、タイミングよく始業のチャイムが鳴り響いた。
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