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第286話

翌日。 またもグダグダな身体をなんとか引き摺って、俺は学校に来ていた。 朝から真鍋の小言が炸裂し、逃げるように飛び出してきた玄関のドアを思い出す。 後ろでは火宮が、ニヤつきながらまだ真鍋に捕まっていたっけ。 「まぁ、機嫌は悪くなかったけど」 てっきり昨日の路地での出来事を、チクチクと怒られるかと思ったけれど。真鍋はそれには何も触れなかった。 「ふぁぁっ…」 欠伸を噛み殺しながら上履きに履き替えていたら、ちょうど登校してきたらしい豊峰と遭遇した。 「っ?!」 「なに」 靴を脱いで拾い上げた豊峰の顔を見た俺は、思わず顔をしかめてしまった。 いや、正確には、その豊峰の口元を見て、だ。 「それ…まさか」 口の端を怪我したように、絆創膏を貼った豊峰の顔が見える。それを目に捉えた俺は、サァッと血の気が引く思いがした。 「ちょっと来て!」 バンッ、と下駄箱の蓋を閉め、面倒臭そうにしている豊峰の腕を掴む。 そのままグイグイと引っ張って、俺は廊下を進み、とりあえず人目につかない階段下のスペースに飛び込んだ。 「何?」 「それっ、まさか」 真鍋に?と向けた視線に、豊峰の呆れた目が返ってきた。 「ああ、あのそちらの幹部様ね。違ぇよ」 「え…?」 「別にあの人は、俺に何もしなかったよ」 「え…」 じゃぁその傷は…。 昨日別れたときには、そんなものなかったはずなのに。 「ふん。親父だよ」 「え?お父、さん…?」 「あぁ。あの真鍋って人…。俺をあんたら事務所の部屋に置いた後、大分経ってから戻って来たかと思ったら、うちまで車で送ってくれたんだ」 「は?」 それが何か問題でも? 口元の傷を撫でるように親指を這わせる豊峰が、やけに憎々しげに吐き捨てているのが不思議だ。 「ハッ、だからあんたはおめでたいんだよ。ウチに、蒼羽会の幹部が乗る車で、門の前まで送られてみろ」 「えーと?」 それの何が悪い…。 「門番に立っているやつに見咎められて、親父に報告が行く。真鍋って人は確かに何もしなかったよ。だけどな、その顔をウチのやつらに見せただけで十分だ」 「っ…?」 「なんで蒼羽会の車に送られて帰って来た、おまえ蒼羽会に何をした」 「ぁ…」 「俺が護衛を撒いたことも、絡まれてあんたを巻き込んだことも、洗いざらい吐く羽目になった」 さすがは蒼羽会幹部。スマートな仕置きをしてくれる、と豊峰は冷笑を浮かべている。 その顔は、どこか諦めにも似て。 「っ、ごめん…」 結局それは俺のせいだ。 俺が後先考えずに突っ走ったから。 「ごめん」 ペコリと下げた頭の上から、豊峰の疲れたような溜息が降ってきた。 「別に、あんたのせいじゃねぇよ。あんたがあのとき来ようが来なかろうが、俺が護衛を撒いた時点で、説教くらいは食らったさ」 「でも…」 「まぁ1発ついたのは、蒼羽会が絡んじまったせいだけど。でもヤクザなんてそういうもんだろ」 ハッ、と息を吐く豊峰には、やっぱりどこかに諦めが見えて。 それと、嫌悪…? ふと掴みかけた感情の揺れは、さらに続いた豊峰の言葉に、跡形なく霧散した。 「そんなことより、俺じゃなくてあんたこそ」 「え?」 「どっか連れてかれてたじゃねぇか。あの会長さんとやらに怒られたんだろ」 見た目はなんともないから、ボディーか?と何気なく口にする豊峰は、多分暴力のことを言っている。 それは分かっているんだけど、俺は…。 「っあー、えーと、まぁ?」 ギクリと身体が強張り、フラフラと泳ぐ目を止められなかった。 「ふっ、分かりやすいのな、あんた」 「え…?」 「あんたさぁ、あの会長さんのオンナだろ」 「っ…」 やばい。 ビクッと肩が跳ねてしまい、しまった、と思ったときにはもう、豊峰は確信的に笑っていた。 「身内にしちゃぁ、なんていうかな。兄弟ったって似てねぇし。歳も離れてるし。まぁ異母兄弟とかいうならアリかもしれねぇが、あの怒りのオーラはな。あんたがあの会長さんにとってどんだけ大事な人間か、馬鹿でも分かる」 「っ、俺…」 頭の中では、「どうしよう」の一言だけがぐるぐると回っていた。 「ふん。その顔」 「え?」 一体俺は、どんな顔をしてしまっていたのだろうか。 「そんな不安な、困った顔。バラされたら困りますー、ってか」 「え…」 そんな顔してたのか…。 確かにどうしていいか困ってしまったのは事実だけど。 「ふん、言わねぇよ」 「え…」 フッ、と俺から目を逸らして、吐き捨てるように言われた言葉がぼんやりと頭に届く。 「知られたくねぇんだろ。別に誰にも言わねぇよ」 「っ…」 蒼羽会関係者だということも伏せている。 それが、そこの会長と、しかも男と付き合っている、なんて知れたら、困るだろ。 豊峰はそう言って冷たい目を向けるけど。 「違っ…」 確かに困る。 けれどそれは、俺の保身じゃなく、火宮に迷惑が掛かるかも知れないことだ。 火宮が一部の人間以外には、俺は火宮『社長』の縁者として通しているのには、きっとわけがあるのだろうから。 「俺はっ…」 「ふん。あんたが偽善者だっつーのは初めから知ってる」 「っ、俺…」 「別に黙っててやるのはあんたのためじゃねぇよ。俺が…俺が、下手にあんたの素性や秘密をバラそうものなら、またあんたんとこの会長さんに絡まれそうでやべぇからな」 あの人、おっかねぇの。と鼻で笑う豊峰の言葉には、なんだかジワリとブレる、小さな違和感があって。 「豊峰くん…」 「だから別に、俺はこのことをわざわざ誰にも言わねぇし、あんたの弱みを握ったとも思ってねぇよ。だから…」 「豊峰くん?」 「なんでもねぇ。ふん、話はそれだけだろ。俺はもう行くぜ」 フィッと踵を返して、階段下を出て行こうとする豊峰の背中が、何か大切なことを伝え損ねていて、その何かは、手を掠めて零れ落ちていった。 だから、だろうか。 「豊峰くんっ!」 思わず叫ぶように呼び止めてしまった俺は、ふらりと手を伸ばす。 けれど俺は、彼を引き止めて一体何がしたいのだろうか。 後先考えて動けと、散々言い聞かされたのに。その身体のダルさも抜けていないというのに、またも反射的に動いていた。 「あ?」 ゆっくりと振り返った豊峰の目は、真っ直ぐに俺の目を射抜いた。 「っ!」 ドクッ、と鼓動が1つ、大きく跳ねる。 「なんだよ」 怪訝な顔が、俺を見る。 ただ、呼び止めた俺への疑問だけが浮かんだ顔だ。 「豊峰くんは?」 あれ? 俺は何が言いたいんだろう。 「は?」 意味がわからないと眉を寄せた豊峰の反応は当然で。 「あ、いや、その…」 思わず引き止めてしまってからこれでは、あまりに馬鹿すぎる。 なのに豊峰は、ハッ、と息を吐いて笑いながら、薄っすらと目を細めて口を開いた。 「別になんとも思わねぇよ。あんたが男に抱かれる男だろうと、ヤクザの頭の情人だろうと」 「っ!」 そうか、俺は、それが知りたかったのか。 豊峰が俺に向ける目に、嫌悪と差別、偏見と侮蔑、それが映らないかどうかを。 「あんたと俺はただの友達ゴッコの関係。あんたが俺に、そういう意味で言い寄ってくるなら話は別だけど、友達ゴッコする分には、あんたがホモだろうと男に抱かれてようと、俺にはまったく関係ねぇよ」 あんたが飽きるまで、ただ友達ゴッコに付き合うだけだ、と言い切る豊峰の言葉が、スゥッと胸に降りた。 「俺っ…やっぱり絶対に、豊峰くんとは本当の友達になるから。本当に友人だって言わせて見せるから」 やっぱり欲しい。 この人が、俺は欲しい。 ニッ、と笑ってやった俺に、豊峰の呆れた視線がチラリと向いて、すぐに見えなくなった。 今度こそ本当に歩き出してしまった豊峰の背中は、けれどなんだか前までとは、少し違うような気がした。

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