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第289話
その後、教室内がどうなったのか、俺は知らない。
ただ、廊下に飛び出した瞬間にチャイムが鳴ったから、きっとみんなはあのまま席について、色々うやむやになったんだろうな、とは思う。
「はぁ。サボっちゃった…」
抜けるような青空に浮かぶ太陽が眩しい。
教室を飛び出した俺が、1人になるために行ける場所は、ここ屋上しか知らなかった。
「これ、バレたらまた鬼に怒られるやつだ」
ふっ、と漏れた笑い声は、自分でも分かるほど、湿って震えていた。
「お尻ぶたれるの、やだな。あぁ、今度はそれだけじゃないか。もっとこっ酷く叱られるんだっけ」
ははっ、と笑ってしまう声に、ズッと鼻を吸う音が混じる。
「授業サボりに、社長様の本職をバラしちゃったんだもんな」
見上げた太陽がじわりとぼやけて、頬を静かに水滴が伝った。
「でも後悔はしていない」
ギュッと拳を握り締め、スッ、と冷たいコンクリートの上に足を踏み出したとき。ふと後ろでドアが軋んだ。
「っ、豊峰く…」
「クスッ、残念。藍が追ってくると思った?」
パタ、と、上履きの足が現れて、続いて全身が見えたそれは、制服をきっちり着た優等生で。
「紫藤くん…」
「あ、その顔。お呼びでない、って感じ」
クスクスと笑う紫藤は、何が可笑しいのだろうか。
ゆったりと屋上に出てきて、静かに俺の横を通り過ぎていく。
「っ、授業…」
優等生がサボっていいのか。
咄嗟に出た言葉は、自分でも馬鹿げてる、と思うような無意味な言葉だった。
「それ、火宮くんが言っちゃう?」
きみもサボってる、と笑う紫藤に声が詰まる。
「ふふ、まぁ僕は腹痛でちょっとトイレ、って言って、ちゃんと許可をもらって抜けて来たけど」
こういうとき、信用があると便利だよ、と笑う紫藤は、俺が思っていたよりずっと腹黒い人間みたいだ。
「あんまり長いと、不名誉なことにならない?」
「まぁ、言いたいやつには言わせておけばいいんじゃない?」
クスクスと笑う紫藤が、屋上の真ん中辺りまでたどり着いて、不意にこちらを振り返った。
「で、その涙はなぁに」
「っ…」
容赦ないな。
見逃してくれればいいものを。
グイッと拭った涙はすでに指摘を受けてしまった後で。
「何でもない。なんて通用しないか」
「ふふ、さすがに堪えた?『騙していた』」
「そう、かな…」
どこかでは覚悟をしていた。
だけど多分、どこかに期待をしてしまってもいた。
だからきっと、はっきりと非難の言葉を向けられて、ズキリと痛んだ胸があった。
「藍がね。行けって」
「え…?」
「きみを追え、ってさ。僕にアイコンタクトしてきたんだよ」
「それって…」
「うん、本当、不器用だよね、あいつ。自分で来ればいいのにねー」
クスクスと笑う紫藤の言葉が、じわりと胸に届く。
「っ、豊峰くんは…」
「うん。どうやらきみに、随分と肩入れを始めてしまったらしい」
クスクスと、楽しげに笑いながらも、紫藤の目は油断なく俺を見つめていた。
「きみがあのままクラスで浮いて、1人でこうして泣くのを見ていられなかったみたいだよ」
「っ、それは…」
「藍はね、知っているんだよ。火宮くんが向けられた、みんなからの非難の目」
「っ…ぁ」
「それがどれだけ痛くって、どれだけ辛いものか、藍は知っているの」
だから。
「家柄だけで判断されて、差別を受けて孤立して。その理不尽さと寂しさを知っているから、きみを放っておけなかった」
クスッ、と笑った紫藤が、不意に俺から顔を背けて、屋上の先へと歩き出した。
「自分と同じ轍を踏む、きみのことを無視できなかった」
「っ…俺は」
「どうするの?」
紫藤の足がふと止まり、背中を向けたままの紫藤から、小さな声が届く。
「このまま進む?」
その先が、絶望と悲しみにまみれた行き先だとしても。
「藍は止めるよ。無駄なことはやめな、って、きっとそう言う」
クスッと笑う紫藤は、豊峰をよく理解しているのか。だからこうして豊峰に託されてここへ来たのか。
「俺みたいになるな、って、きっと。藍ならきっと、そう言うだろうな」
ゆっくりと空を見上げた紫藤の髪が、ふわりと風に揺れた。
「じゃぁ紫藤くんは?」
「………」
背中に向かって投げかけた声には、小さな吐息だけが返った。
「紫藤くんも、諦めろ、って思う?」
「っ…」
ピクンと揺れた紫藤の肩が、小さく震えてストンと落ちた。
「僕は、期待をしている」
「期待…」
「火宮くんならば、もしかして、と思っている」
「っ…」
それは俺の行動への肯定で。
「だけど、色々な意味で脅威だとも思っている」
「っ!」
「もしもきみがこのまま突き進んで行って失敗したら。きみは藍をきっと傷つけることになる」
クルリと振り向いた紫藤の目が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「火宮くんは、どうしたい?」
それは同時に、俺も傷だらけになるということでもあって。
それでも俺は、俺の想いを止められない。
「進む」
後戻りも立ち止まりもする気は無い。
だって正々堂々と口上ぶちかまして来ちゃったから。
行き着く先がどんな場所でも、俺は俺の信念を、曲げるつもりはまるきりない。
一度決めたその道を、志半ばでやめるつもりは、俺にはないよ。
「ハッ…。だからあんたは甘ちゃんで、馬鹿だっつーんだよ」
ガチャッと、再び開いた屋上のドアから、今度は不良を絵に描いたような姿の生徒が現れた。
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