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第307話

「ふふ、久しぶりのデートです」 「寿司屋がか」 「んー、だって外食でしょ?立派なディナーデートですよね」 「そうか」 ふわりと笑う火宮の隣で、俺はカウンター席にちょこんと座って、目の前の透明なケースをドキドキと眺めていた。 そのネタケースの中には、高級な寿司ネタが並んでいる。 やっぱりというかなんというか、真鍋が火宮の夕食に回る寿司屋を予約してくれるはずもなく、結局こんな高級寿司店に来ることになっているし。 「ほら、翼、何を握ってもらう?」 何も乗っていないつけ台をジロジロと観察していたら、火宮に横からつつかれた。 「あのっ、俺、分かんな…」 こういう寿司屋のマナーとか、頼む順番とかタイミングとか。 なんかあるんだよね? 困って見上げた火宮の口元は、楽しそうに弧を描いていて。 「別に好きなものを好きな順番に食べればいい」 「でも…」 「他に客はいないんだ。遠慮するな」 それはそうだけど。 警備の都合とかなんとかで、この人、この店を貸し切りにしちゃったから。 「ククッ、そうやって物怖じする翼も、珍しくて可愛いが…」 「う…」 「おまえが美味そうに喜んで飯を食べてくれる方が、俺は楽しいぞ」 いつもの威勢はどうした、と言われてしまえば、俺にはもうどうしようもなくて。 「じゃぁトロ下さい」 多分いきなりやらかしたんだろう。 プッ、と軽く吹いた火宮と、返事まで軽く間のあいた職人さんの声から、それが分かった。 でも。 「好きにしていいって言ったでしょう?」 「あぁ。構わん。ただ、やっぱりおまえらしくて、思わず笑えた」 馬鹿にしたわけではない、と目を細める火宮に、ドキッとする。 そんな愛おしくてたまらないものを見るような目。ずるい。 「っ…ひ、火宮さんもっ、早く頼んだらどうですか」 人のことばっかり見てないで。 「ククッ、そうだな。じゃぁ大将、コハダを」 またスマートに、なんかそれっぽいネタを言って…。 「それが正解なんですね」 どうせそれが正しいマナーなんでしょ。 「クッ、だから、正解も不正解もない。恨みがましい目で見るな。ほら、出されたらすぐに食べてやれ」 目の前のつけ台に乗ったのは、ツヤツヤと輝くご飯の上に乗った、綺麗な色をしたトロ様で。 「手?」 「手でも箸でも好きにしろ」 火宮の様子から、それはどちらもマナー違反にならないらしいと分かった。 「いっただっきまーす」 ならば手で、と、ひょいと取り上げたトロの握りを、軽く醤油につけて口の中に入れる。 舌に触れるネタの味が、じんわりと染み渡る。 「んーっ、美味しい」 思わず緩む頬に、目がうっとりと下がってしまう。 「クックックッ、本当におまえはな」 「ん?あぁ幸せ。次は…この白いのなんですか?」 あまりの美味しさの前に、緊張感など吹っ飛んだ。 おかげで和んだ空気の中、俺は遠慮なく、高級寿司を堪能させてもらった。 「ふぅ。ご馳走様でした」 満腹になるまで好き放題寿司を食べ、大満足で店を出た。 すっかり暗くなった夜空の下に、眠らない街の明かりが煌めいている。 「ね、火宮さん。少し散歩して行きません?」 会計を済ませて後から出てきた火宮を振り返り、街のネオンが煌めく方向を指差す。 「ククッ、奥さんのご要望とあらば、なんなりと」 火宮が大袈裟に傅いて、エスコートの腕をスマートに差し出してくる。 胸の下に手を置いて軽く肘を張った火宮のそこに、俺は乱暴に腕を絡めてやる。 「奥さんって、だから俺は男ですっ」 「ククッ、知っている」 「っーー!どこ見て言ってるんですかっ!」 綺麗な顔をして、意味ありげに下半身に視線を流すそれ、やめて欲しい。 グンッと体重をかける勢いで腕を組んでやったら、さすがに火宮の身体も傾く…はずもなく、軽々と踏み止まった火宮が、愉しげに目を眇めた。 「クックックッ、本当、おまえはな」 「むぅ、どうせ俺は非力で華奢……わっ!」 成長はこれからだー、とグイグイ火宮の腕を引っ張ったら、ちょうど向かいから歩いてきていた人とぶつかってしまった。 「おい翼、何をしている。ほら」 「あっ、ごめんなさい」 クイッと腕を引いて、火宮がさっと腰を抱き寄せてくれる。 ペコリと相手の人に頭を下げながら、チラリとその顔を窺う。 その人は、若そうな、下手をしたら俺と同じ高校生じゃないかと思われるくらいの年頃の男の人だった。 「いや、こっちこそ…」 「……?」 じっと見つめられているような気がする。 『やっぱりマジか…』 ポソッと呟かれた言葉は、距離の近い俺だけに聞こえて…。 「えっ?」 やっぱり、って、なに? この人、俺を知っている? 俺には見覚えのない男の人。 「どうした、翼」 「え、あの…」 この人が、と火宮を見上げようとした瞬間。 「あっ、本当、こっちこそ、ぶつかってすみませんでしたっ。あの俺、急ぐんで」 ペコリンと頭を下げたその人は、慌てたようにその場を去って行ってしまった。 「んー?」 「翼?」 「いえ。気のせいだったかな」 知らない人だし、何かを聞き間違えたのかも、と思って、俺は首を振った。 「ふっ、まったくおまえは。俺にこうしてくっついていろ」 危なっかしくてしょうがない、と笑った火宮に、完全に腰を抱かれてしまう。 「わっ…な、なんかこれって…」 恥ずかしいー。 街中で、イチャイチャくっついているカップルみたいじゃないか。 「その通りだろう?」 「あれ?俺言ってました?」 「あぁ」 「でも男同士で」 好奇の目が、この人は気にならないのだろうか。 「ククッ、おまえをフラフラ野放しにして、またどこぞの通行人とぶつかって絡まれる方が気にかかる」 「人を酔っ払いみたいに…。それに絡まれるって…」 俺だけならなんかありえそうだけど、隣にこんなダークな人を連れているのに? 「まぁここはうちのシマ内だし、夜のこの街で俺の連れているツレに絡むような命知らずはモグリだが…ないとは言えないぞ。どこにでも馬鹿はいる」 それに蒼羽会会長という名は知っていても、顔までは知らない半グレやチンピラは多いし、一般人の酔っ払いが実はタチが悪かったりする、って。 「そういうものですか。あっ、ねぇあそこ、なんか綺麗なお姉さんが、こっち見て頭下げていますよ」 明るいネオンが瞬く店の前で、明らかにこちらに向かって微笑みかけている女性がいる。 「あぁ、あの店のホステスだ」 「知り合いですか?」 「この街で、うちの後ろ盾なしに夜の商売はできないさ」 「ふぅん」 でもあんな綺麗な人にニコニコされる火宮になんかムカッとする。 「っ、火宮会長っ。見回りっすか、お疲れ様ですっ」 「きゃぁ、火宮会長よ。お久しぶりです。寄っていってぇ」 街を行けば、次から次へと声がかかり、頭を下げてくる、ホストやホステス、水商売っぽい人たちや、飲食店のオーナーさんみたいな人までいる。 「なんかモテモテ…」 面白くないなぁ、と思いながら、俺はぎゅぅ、と火宮の腕に絡めた手に力を込めた。 「ククッ、なんだ、嫉妬か」 「だって…」 俺のだもん。 「クッ、こう可愛い嫉妬を見せてもらえるなら、たまには夜の街の散歩も悪くない」 「なんかそれ、ムカつきます」 余裕で楽しんでいる火宮に腹が立つ。 だけどその目は目移りなんかしてなくて、俺だけを大事そうに見てくれるから。 「ふふ…」 やっぱり嬉しい、と顔を緩めながら、俺は結局、さっきぶつかってしまった男の人のことは、すっかり忘れてしまった。

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