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第317話

っ…。 確かに火宮と、とは書いたけどさ。 だからってこの人ならいいって解釈はどうなんだ。 医者の出て行った病室に2人きり。じっと見つめてくる真鍋の視線に居心地の悪さを感じながら、俺はゴソリと身動いだ。 「翼さん」 無感情…よりは、少し心配そうに揺れている真鍋の声に、俺はそっと首を傾げる。 「先生に、会長を遠ざけるよう、願ったそうですね」 責めるようではない、ただ淡々とした真鍋の声が響く。 コクン。 静かに首を上下させた俺は、チラリと真鍋を窺って、そっとペンを取った。 『怒ってますか?』 真鍋の仕える火宮を排除するような真似をしたのだ。 表面にこそ見えなくても、この人の内心は、非常に面白くないのかもしれない。 スッ、と向けたノートを見下ろした真鍋の目が、薄く細められた。 「いいえ」 そっ、か…。 「怒りはありません。けれど、苛立ち…いや、違いますね。これは、恐怖と、寂寥ですか」 え? 軽く目を伏せて呟かれたのは、あまりに真鍋らしくない言葉で。 ピクリと肩が震える。 この真鍋が、怯え? 寂しいって、なに…。 まったく理解ができない。 手にしたペンでふにゃりと無意味な曲線を描いてしまった俺の手元を見て、真鍋が小さな自嘲を浮かべた。 「重ねてはいけないことは分かっております」 ふっ、と吐かれる息は、真鍋の嘲笑を強調していて。 「ですが私は…大切な者への思いのために、心を壊していく人間を見るのは、もうたくさんです」 っ!それは…。 「翼さん、あなたの言葉で教えてはいただけませんか」 っ…あのことを? 反射的に左右に振った首を、真鍋が静かに見つめてきた。 「会長を狂わせることが怖いですか?」 それは…。 「私はあなたが狂っていくことの方が怖いです」 っ…。 真鍋の口から、はっきりと怖いなんて言葉…。 思わず動揺が全身に広がる。 「翼さん、1つだけ言わせて下さい。会長は激情を露わにはなされていましたが、決して理性を失ってはおりません」 『え?』 「あなたは、あなたが事の真相をお話しになることで、会長が怒りに任せて彼らに復讐をなさろうとしているとお考えかもしれませんが。会長は2度も、同じ轍を踏むようなことはいたしませんよ」 『聖、さんの、ときみたいに』 その名を書いた瞬間だけは、さすがに手が震えた。 「そうです。今の会長は、激怒はなさっていますけれど、我を忘れてはおりません。狂気に駆られた復讐などを、なさるおつもりは微塵もありませんよ」 っ、でも…。 「翼さん。会長は、蒼羽会会長として、そしてヤクザの面子にかけて、その本命であるあなたに手出しされたことへの報復と見せしめを、ただ執行なさるおつもりです」 『それは』 「復讐や私怨に突き動かされて、動いているのではない、ということです。あなたは何も悪くない」 っ、だけど…。 「あなたは、何も悪くなどないのです、翼さん」 それは真摯でとても重く、そして思いの丈を込めた、真鍋の言葉だった。 「ですからどうか、思い詰めることのありませんように」 自分を責めるなと? 「その身の内に、真実を抱え込み、塞ぎ込まないで下さい」 それは、かつて真鍋に法への絶望をさせまいと、暴行の内容の一切の口を噤み、その身1つにすべてを抱え、静かに狂って死に向かった妹のことがあるからか。 今の俺が、同じように、火宮に復讐の刃をふるわせまいと、何も言わず、声を失い、こうして火宮を遠ざけ、1人でいようとしていることが、ダブって見えるのか。 「私は、翼さん。あなたが心配でならないのです」 真っ直ぐに向けられたその思いに、言葉を作らない唇が小さく震えた。 「あなたが口を開くことで…あなたが会長のお側に身を置くことで、会長が狂われることなど、決してありません」 俺は…。 「会長が狂気に飲まれ、闇に堕ちるなどということは、決して」 だから火宮を信じろと…? 『俺は』 ポツリと書いた文字は、それ以上続かず、何を言えばいいのかまとまらない俺の空白を、真鍋は辛抱強く見つめていた。

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