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第320話

そうしてふと気づけば、ノートは無意味な線で真っ黒になっていて、目の前のテーブルには、湯気の立つ美味しそうなココアが置かれていた。 えっ?! ガバッと顔を上げた俺は、向かいのソファに座り、膝の上に乗せたパソコンをカタカタと叩いている真鍋を見つけた。 「………」 真鍋さん、と呼び掛けた声は、やっぱり音にはならなくて、俺は落書きで埋まってしまったノートのページをめくる。 その音に気がついたのか、真鍋の目が、ゆっくりとパソコンの画面からこちらに移動した。 「あぁ、翼さん。お気づきですか?」 『あの…』 お気づきって…。 「何やら考え事に沈んでいらしたようでしたので。茶を入れに来た者もいましたが、とりあえずあなたの方だけご紹介しておきました」 あー、全然気づかなかった…。 「何度かお呼び掛けさせていただきましたが…」 俺が答えなかったのか。 『すみません』 「いいえ。お疲れなのでしょう。どうぞ」 まぁココアでも飲んでくつろげと。 ーーいただきます。 出ない声で、両手を合わせて頭を軽く下げるという方法で伝えた俺は、まだ淹れたてのココアをありがたくいただいた。 カタカタと、キーボードをタイプする音が、静かなリビングに響く。 俺はそっと視線を上げて、真鍋の様子をチラリと窺った。 「なにか?」 うわ!え?いや…。 ちょっと視線を向けただけで、こちらを見もしないでなんで分かるんだろう。 その察知能力、恐るべしだ。 「翼さん?」 『あ、いえ。その、お仕事ですか?』 別に何の用があったわけでもない俺は、見ればわかり切っている間抜けな質問をしてしまう。 「はい」 ですよねー。 『えっと、その、向こうは…』 あ。焦りすぎて、何を聞いてるんだろう、俺。 やばい、と誤魔化す言葉を探してペン先を彷徨わせた俺に、真鍋は平然とした無表情を崩しもしなかった。 「まだ有益な情報を得たという報告は聞いておりません」 『そうですか。真鍋さんは、行かなくてもいいんですか?』 「はい」 『えっと、事務所、とか』 こんな、自宅で仕事をしていていいのだろうか。 「構いません。私は、翼さんから目を離さないよう、言付かっておりますので」 え?俺? それって…。 「ですから、お気になさらず」 俺を見張っているのも仕事のうちだって? それはつまり。 『俺は』 死んだりしませんよ…。 とっさになんでそう思ったかは分からない。 ただ、真鍋と、そして多分火宮の懸念はそれだということを、直感的に悟った。 「分かっております」 ですがそれでも、と小さく呟いた真鍋に、俺は直感の理由に気づいた。 そうか。 そうだった。 この人も、火宮も。 レイプの果てに、全ての真相を身の内1つに抱えたまま、この世を去っていってしまった人しか知らない。 未遂と言えども俺も、同じ道を辿るのではないかと、この人たちは怯えているんだ…。 『違います』 俺は、聖や蒼とは違う。 死んでしまうつもりなんて、微塵もないから。 あれ? でも真相を一切語らず、黙り込んで塞ぎ込んでいる俺は…。 同じに見える? もしかして俺は、黙っていることの方が、火宮を傷つけ、苦しませているのだろうか。 だけど…。 っ! 「翼さん?」 『ごめんなさい。真鍋さん、お風呂って、お借りすることはできますか』 分からない。 何が正しい? どうすることが正解なの? 思考がぐちゃぐちゃにこんがらがって、解き方が分からない。 だから今はとりあえず、さっぱりしたい。 「構いませんが」 あ、大丈夫。 溺死とか苦しいことは狙っていないから。 「お1人にしても、大丈夫ですね?」 うん。むしろ風呂に1人じゃない方が嫌だから。 コクンと頷いた俺を、窺うように見た後、真鍋がパタンとパソコンの画面を閉じた。 「分かりました。では、浴室はこちらです」 スッとパソコンをテーブルに置いた真鍋に従って、俺はホッとしながら、風呂場までついて行った。

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