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第321話

サァサァと、ぬるいよりもさらに冷たいシャワーを頭から浴びる。 この浴室はさすがに普通の個人宅サイズで、無駄に広すぎるということも、高級過ぎるということもなく、多少は落ち着く。 けれどここが、真鍋個人の浴室で、住み込みのみなさんには、専用の広い浴室が別にある、という話は、もう聞かなかったことにしよう。 ーーぷはっ…。 本来なら浴室の壁に反響すべき声も、やっぱり今の俺は持たない。 ーー真鍋さんと同じ香りだ。 棚に綺麗に並べられたシャンプーを手に取った俺は、ドキドキしながらそれを泡立てた。 ーーこんなの、火宮さんが妬くかな。いや、怒るか。 嫉妬深く、独占欲の強い火宮の眼差しが思い浮かぶ。 ーー怒って…もらう資格、あるのかな…。 他の男と同じ香りを身につけたこと。 他の男の匂いを…この身体につけてしまった俺が…。 ザァッと流したシャンプーの泡が、くるくる回って排水口に吸い込まれていく。ぼんやりとそれを眺めながら、今度はそっとボディーソープを泡立てた。 ーーここ…。 先輩たちに捏ね回されて、無造作に弄られた乳首を、真っ赤になるほどゴシゴシと手のひらで擦る。 ここも…。 くにゃんと垂れた性器にも手を伸ばして、ゴシゴシと痛いほど泡をなする。 っ…。 後ろ。 指を入れられて…。 そっと泡のついた指を蕾に触れさせた瞬間、ボロボロと涙が溢れてきた。 「………」 泣き声も出ない。 ツーンとした鼻の痛みに、唇は震えるのに。 っ…く、ふっ、ぅぇっ…。 まともに泣くことすら出来ないんだ、俺。 ーー火宮さん。火宮さんっ、火宮さん…。 どう足掻いてみても出ない声で、けれども呼びかけたいのはたった1つ、その名前で。 ーー火宮さんっ…刃。じんっ…。 必死で叫ぶも、口がパクパクするだけで、一切響かない音に、虚しくなる。 ーー俺、汚されたんです。 本当は全部、何もかも吐き出して、慰めてもらいたい。 ーーあなたが大切にしてくれたこの身体に、他の男の手垢をつけてしまいました。 その嫌な記憶を、嫌な感触を、全部塗り替えて払拭して欲しい。 我儘だなぁ、俺…。 俺のその記憶は、火宮を傷つける事実でしかないのに。火宮までもを穢す、最低の事実でしかないのに。 ーー気づい、ちゃった…。 火宮の側にいてはいけない。 そう考える頭とは裏腹に。 俺の心は火宮を欲する。 火宮の側にいたい。 うっ、うぅっ…ひっぐっ…。 ズルズルと座り込んでいってしまう身体が、ペタンと冷たい浴室の床に触れる。 頭の上から、サァサァと降り注ぐシャワーの水が、俯いた顔の横を、髪を伝って流れ落ちていく。 ーー苦しい、よ…。 消えてしまいたいな。 もういっそ、俺の存在ごと綺麗さっぱりなくなってしまえばいいのに。 俺がいなければ、俺のせいで火宮が手を汚すこともない。 俺の存在自体が消えてしまえば、同時に汚れてしまった俺も消える…。 この、辛さも。 ザァァッ、と流れ落ちるシャワーの水が、音を遠ざけ、感覚を鈍らせていく。 ハハッ、と浮かんだ笑いは、やっぱり音を作らなくて、ゆっくりと閉じていく目から、視界が消えていく。 あぁ、俺。 俺も……。 「翼さんっ!」 バァンッ、と派手な音を立てたのは、浴室のドア? 「ッ、冷た…っ、この馬鹿者がっ」 パシャパシャと水に濡れた床を踏んで、近づいてきた足音を立てるのは誰。 「ふざけるなっ!」 グイッと掴み上げられた腕が痛い。 まさか真鍋さん? やけに似合わない乱暴な声で怒鳴っているけれど。 バチィンッ! っ…痛いっ! おもむろに、お尻に強烈な痛みを受けて、俺は飛び上がりながら目を開けた。 なにすっ…。 文句を言おうと開きかけた口は、びしょ濡れになったスーツで、ぎゅっと辛そうに顔を歪めた真鍋の姿を見て固まった。 っ…。 「お馬鹿さん…」 なんて似合わない顔、しているんですか。 クールで非情で、無表情がトレードマークなのが、真鍋さんじゃなかったですか? 「お馬鹿さんっ…」 あーぁ、高級ブランドですよね?それ。 ずぶ濡れじゃないですか。 っ…。 ギュッと抱きしめられた身体が、真鍋の濡れたスーツに触れて…。 っ!うあぁぁぁっ。 音にはならない、全力の泣き声が心の底から迸った。

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