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第340話

キシッ、とベッドのスプリングが軋む音で、俺はぼんやりと目を覚ました。 あ、火宮さんだー。 珍しく、起きたばかりの火宮を見つけて、へにゃりと頬が緩んだ。 「クッ、おはよう」 おはようございます。 にこっ、と微笑んだ俺の声は、一向に治る気配もなく、挨拶の言葉は音にはならない。 「おはよう」の一言を言えなくなって、どれくらい経っただろう。 「………」 「ふっ、翼、焦るな」 つい沈んでしまった内心に気づかれたのか、ポンと頭を1つ撫でてくれた火宮が、チュッ、と優しいキスを頬っぺたにくれた。 あっ…。 『今日はお休みなんですか?』 日曜日で、俺は学校がないのだけど、ここ最近、火宮はずっと日曜も出勤していた。 だから朝、こんな時間までのんびりと火宮が家にいることが珍しくて、枕元に置いていたメモ帳にペンを走らせる。 「クッ、久々の休みだ。おまえと旅行に行く時間を作り出したくて、このところ、仕事を詰めに詰めていたからな」 『あ…』 そんな無理をしてくれていたのか。 「だが今日は、それよりも大事な用事があるからな」 『大事な用事ですか?』 仕事が休みでもお出掛けなのか…。 「クッ、おまえも一緒に行くんだぞ」 『え?』 「指輪だ」 っ! 「出来上がったそうだ」 じゃぁ、じゃぁ今日は…。 「宝石店に取りに行って、そのままデートだな」 やったー! 思わずぴょんっとベッドから飛び降りて、はしゃいでしまったら、火宮がクックッ、と可笑しそうに喉を鳴らした。 ✳︎ っ…。 薬指に光る、つや消しタイプのプラチナリングをスッと光に翳して眺めてしまう。 火宮の手で恭しくはめてもらった揃いのリングが、俺の薬指を飾っている。 そのことに、胸がジーンと熱くなる。 「ククッ、どうだ。気に入ったか?」 っ、ん…。 コクコクと、頷くことしか出来ない俺に、火宮がふわりと笑みをこぼす。 ーーあ、りが、とう…ありがとうっ。 必死で、必死で、火宮に告げるのに、どうして俺の言葉は声にならないんだっ。 もどかしさと悔しさがいっぱいになって、ジワリと涙が浮かんでくる。 「翼。翼、焦るな」 パクパクと喘ぐ俺の言いたいことに気づいたのか、火宮は優しく笑ったまま、宥めるように頭を撫でてくれる。 だけどっ、だけど俺は…。 どうして「ありがとう」の言葉すらも、声にすることが出来ないのだろう。 こんな大事な言葉、文字でなんかじゃなくて、ちゃんと俺の声で伝えたいのに。 っ…。 悔しくて、苛々して、自分が自分で嫌になりそうだ。 「翼、大丈夫だ。分かっている。分かっているから」 ぎゅっ、と抱き締めてくれる火宮の腕が温かい。 心地よくて、幸せで。 っ…。 なのに俺は、その想いも声に出せない。 俺は何日、火宮に「好き」と言えていないんだろう。 ーー好き、です…。 ポタリ、と宙を滑った涙が、銀色に光るリングの上に落ちた。 「翼…」 火宮さん…。 (愛している) そっと持ち上げられた手の、左手薬指。 真新しいリングの上に、軽いリップ音を立てて、火宮の唇が落とされた。 っ! 火宮は何も言葉にはしなかったけれど。 そこから伝わる想いが分かる。 っーー!もう、この人は。 だから好き。だからたまらない。 愛しています。 出せない声の代わりに精一杯の想いを。 火宮の左手薬指にはまった、俺のと真同じデザインのリングにキスをする。 火宮が教えてくれたやり方で。 火宮と同じように、けれど火宮のものよりずっと深く長く。 「ククッ、この負けず嫌いめが」 黙って俺の行動を見下ろしていた火宮が、俺のキスが終わるのと同時に、ピンッとデコピンをしてきながら笑った。 パッと額を押さえた俺の手と、額を弾いた意地悪な火宮の手の薬指に、それぞれ同じリングが輝いているのが見えて、なんだかとても幸せだった。

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