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第347話

うわぁ、すごい。 1人で先に突っ走り、不意に開けた視界の先に、サァァッと水音を立てる、綺麗な渓流があった。 ーーあっ!火宮さんっ、魚!さかなっ! パシャンと跳ねた魚の姿に興奮して、後ろを振り返りながら川を指差す。 っ…。 後からゆったりとついて来ていた火宮は、耳にスマホを当て、「悪い」というように、軽く片手を上げていた。 あ、電話か…。 旅行中だというのに、通話を選んだということは、よっぽど大事な用なのか。 ちぇ。じゃぁ1人でもっと奥まで行っちゃいますからね。 火宮が会長で社長で重職についている人間だということは分かっているけど、旅行先でもこれってさ。 んべ、と舌を出してから、俺は川に沿って上流へ歩き始めた。 「ッ、翼っ。…あ、いや。あぁ。…そうか、ならば池田を…」 んー?相手、もしかして真鍋さん? 電話をしたまま俺を追ってくる火宮の声が漏れ聞こえてくる。 「…おまえが?いや…。翼?あぁ、声はまだ…。そうだ」 え?俺の名前…。声って…。 「あぁ分かった。注意しておく」 ふっ、と後ろの気配が動いて、火宮の通話が終わったらしいと分かる。 「翼」 『真鍋さん?』 スマホを取り出して、メモ画面にさっと打ち込んだ文字を火宮に向ける。 「ん?電話か。あぁ、真鍋だった」 『なにかお仕事ですか?』 「クッ、まさか。大したことじゃない、気にするな」 つい足を止めてしまっていた俺の頭に、ポン、なんて手を乗せてきて笑う火宮だけど。 本当に大したことじゃなかったら、旅行中にわざわざ俺を放置して、電話に出たりしないはずでしょ、あなたは。 それに真鍋も。よっぽど重要な用件でない限り、休暇で俺と旅行に来ていると知っている火宮に、連絡をしてきたりしないはずなんだ。 『ん。そうですか』 でも問い詰めたところで、火宮が1度大したことはないと言ったことの真実を、そう簡単に吐くとも思えない。 「あぁ。それより翼、どうだ?この景色は」 そっと腰を抱いてくる火宮が示すのは、見事な渓流。岩の間から流れる水が白く糸のようにしぶき、小さな滝にも見える。 『綺麗ですね。そうだ、竿があったら、渓流釣りが出来そうです』 さっき魚が見えたんだ。 「ヤマメやイワナか?おまえ、意外とアウトドアなのか」 『やったことないですけど』 えへ、と笑って見せたら、火宮が頬を緩めて苦笑した。 「なんだ」 『火宮さんは?』 「まぁないな」 ですよねー。 なんか、火宮とアウトドアは、1番似合わない気がする。 「ククッ、なんだその顔は。ヤクザと健康的なアウトドアは合わないって?」 言ってないー。 むぅ、と口を尖らせて火宮を見たら、チュッ、と掠めるように唇を奪われてしまった。 んもぅ…。 嫌じゃないから困るんだよね。 ヘラッ、と緩んでしまった顔を自覚した瞬間、ふと、こちらを窺う視線を感じたような気がした。 っ? 「翼?どうした?」 軽く首を傾げている火宮は気づかなかったのか。 んー?と見回した周囲には、特に人の気配もなにもない。 あ、そっか。護衛の人か。 そういえば見てるんだったよね。 本当、慣れないな。 フルフルと首を振った俺に、火宮が穏やかに笑う。 けれどその目がなんだか、鋭い気がして。 ーー火宮さん? きゅっと手を握って、軽く引く。 「ん?あぁ、行くか」 シラッとした顔で、散歩の続きをしようと足を踏み出す火宮の目は、いつも通りだ。 気のせい…? ふわっ、と岩を飛び越えた火宮に引かれて、俺もふらりと足を踏み出す。 「ククッ、その岩は滑るぞ」 っ、わ、ぁぁ! そういうことは先に言ってよね。 ずるっ、と嫌な予感を足の裏に感じ、ヒヤリと冷たい汗が伝った瞬間。 「クックックッ、おまえは本当、持ってるよな」 さっ、とスマートに腰を抱いてくれた火宮のおかげで、無様に転ぶのは避けられた、けれど。 っーー!このどS! どう考えても確信犯。 初めから、こうなるように誘導している、火宮の意地の悪いこと。 「ククッ、その目」 ふんっだ。火宮さんこそ、滑って川に落ちちゃえばいいんだ。 呪いの言葉を内心で呟きながら、ツンとそっぽを向いてやる。 「クッ、どうやら夜は、蜜より仕置きがいいようだな」 はぁっ?言ってない! 妖しい火宮の微笑みに、ゾクッとなりながら、俺はブンブンと首を振った。 んもぅ、本当、意地悪。 ムッとなりながらも、また滑るのが怖くて、火宮にくっついた身体を離せない。 そのまま俺たちは、散歩を再開する。 そのとき、ふ、と、またもチリリと肌を刺激する、微かな視線を感じた。 浜崎さん? またうっかり出てきて、火宮に怒られないでよ、と笑ってしまいながら、俺はぎゅぅ、と、火宮に寄せた身体をさらに密着させて、ゆったりと歩き出した。

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