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第375話

「はぁっ、もう、なんだよ、あれ」 カァッと熱くなってしまった頬を、トイレの洗面台でバシャバシャと冷やす。 へにゃりと情け無い顔をした俺が、目の前の鏡に映っている。 「みんな現金すぎ」 確かに火宮は格好いいけどさ。他人事なら、いいゴシップで、食い付きたくなるのも分かるけど…。 まだまだ当分、ネタにされるのだと思うと、思わず溜息も漏れる。 はは、と乾いた笑いを漏らす俺が、俺を見つめたところに、ふと、別の人影が映った。 「っ…」 俺の背後。ニヤッとしながら、鏡の中で笑う男がいる。 他にいくらでも洗面台は空いているのに、敢えて俺の後ろに立つその意図は、きっとろくなものではない。 反射的にその場を立ち去ろうとした俺は、それより1歩だけ早く、隣にスッと移動してきた男に、逃げ道を塞がれた。 「っ…」 明らかに、俺の行動を阻害する動き。 鏡越しに見つめてくる目は、確実に獲物を狙うハンターのもの。 震えてくる身体を必死で落ち着かせようと、小さく息を吐いた俺の目の前で、男の口がゆっくりと動いた。 「警戒しなくていい。危害は加えない」 見知らぬ人間にいきなりそんなことを言われても、それを信じられる要素は1つもない。 「ただ、話がしたいだけだ」 「話?」 まったくの初対面のはずの男が、俺となんの話があるというのだ。 うっかり疑問は顔に出ていたんだろう。 ニヤッと意を得たような顔をした男が、そっと口を俺の耳元に近づけてきた。 「蒼羽会会長の情人。さっきの体育祭、きみが会長さんに抱き上げられていた写真、見たぜ」 「っ!」 ねっとりと、絡みつくような嫌な声に、俺はギクリと身体を強張らせた。 「なぁ、ちょっとした小遣い稼ぎ、しないか?謝礼は出す。蒼羽会の、もしくはその会長さんの、話を聞かせてくれたらな」 「あ、なた、は…」 そんな取り引きめいた話を持ちかけてくるこの男は何者か。 不信感がいっぱいになったところに、ガチャッとトイレの入り口のドアのノブが回る音がした。 「翼ぁ?」 「ッ!これっ、俺の番号。俺は本城。気が向いたらいつでも電話をくれ」 くしゃり、と小さな紙を握らせてきた男が、サッとキャップを目深に被り、俺の側を離れていく。 「っ…待っ」 「いたいた。おまえなぁ、1人になるなって言ったそばから…」 スッと出口に向かった男と、テクテクとトイレに入ってきた豊峰がすれ違う。 「しかも長ぇしよ…って、翼?」 「あ、うん、ごめん」 あは、と浮かべた愛想笑いは、多分完全に引き攣っていて。 「どうかしたか?ッ、まさか今すれ違った男が何か…」 強張っている俺の理由に気づいたか、豊峰がパッとトイレの出入り口を振り返る。 「っ、違う、何もされてない」 「だけど」 「ただちょっと話を…よくわからない話を、されただけ」 小さく震える手を必死で我慢しながら、俺はにっこりと豊峰に笑顔を向けた。 「話ぃ?知り合いだったのか?」 「違う、けど。本城って名乗ってた。火宮さんの話を聞きたいって、多分これ、携帯番号…」 そろりと開いた手の中には、男に無理矢理渡された紙があって。 「本城?会長サンの話って…サツ?いや、あれは…」 うーん、と何かを考える素振りをした豊峰が、ハッと顔を上げた。 「暴力団とか、ヤバイ組織とかのネタを売りモンにしてる、たちの悪いフリーのライターの偽名の1つがそんなんだったの、聞いたことあるような気がする」 「ライター?」 「あぁ。ほら、実録ナントカ!みたいな、あるじゃん」 ヤクザの実情や動向を興味深く書いてるような雑誌、と嫌な顔をする豊峰は、色々と詳しいようで。 「まぁでも俺も、はっきりと言えるわけじゃねぇし、これは、会長サンにちゃんと相談しろよ」 「うん」 「あぁ、なんなら護衛の人、呼ぶか?来てんだろ?」 「え?あ、えっと…」 そういえば、浜崎がどこかについて来ているはずだけど。 「っ、いい。みんなの空気、壊したくないし」 慌てて首を振った俺は、落ち着いたらやっぱり、打ち上げに戻りたい気持ちがあって。 「そうか…。まぁ、あれだ。あのお方なら、どうとでもしてくれるだろうから」 トンッ、と肩を打って、豊峰が笑う。 「うん。ありがと。心配かけてごめんね」 「謝るんじゃねぇよ。俺ら、ダチだろ?」 だから当たり前、とサラリと言い放つ豊峰の言葉が嬉しい。 「うんっ」 変な男の接触で、微妙に落ちていた気分が、そんな豊峰の言葉で、ふわんと浮上した。

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