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第6話

「六、七、八……」  統は、蝉の声を聞きながら畳の上に寝転んで、天井の木材の年輪を数えていた。  夏季休暇中の課題も出ているというのに呑気なもんだ。しかし、ここ数日は何も手に付かず、頭が茫としている。  母曰く夏バテだと言っていたが、どうやら原因はそれだけではないと思われる。 「統―。統。樹が、帰ってきたよー」  母の声が聞こえる。  しかし返事をする元気もない。 「九……っと、どこまで数えてたっけ……」  見失ってしまった。まあいいか、と腕を大きく畳の上に投げ出した。  結局、秋夜との関係はぎくしゃくしたまま学校は完全な休みに入ってしまった。その間は補講もないので秋夜と会うには家を訪ねるしかない。  うだうだ考え事をしていると、補講の最後の週もろくに話も出来ず、に終わってしまった。  その間にも彼は哀しそうな表情をしていることが度々あった。その理由もまだ聞くことができていない。  統はそんな表情を浮かべる秋夜を見かける度、その場から動けなくなる。  何だか訊きづらい話題でもある。それは恐らく、転校してきた理由でもあるのだろう。以前、転校の理由を訊いた時の反応を見ると、教えてくれるかどうか。  また秋夜は一人になってしまうのだろうか。  どうするのが秋夜にとって一番良いのだろう。  統は答えの出ない自問に延々と悩み続けている。  忙しない蝉の鳴き声が耳に入ってくる。  今日はとてもいい天気だ。雲ひとつない青空。でも統の胸の内にはもやもやとしたものは晴れないでいる。 統は大きく息を吐いた。 「大きなため息だな」  顔を覗き込んできたのは樹だ。また一つ髪色が明るくなっている。会う度に髪色は明るくなってゆき、今は金髪とまではいかない明るい茶色だ。 「よう」 「ああ、兄ちゃん。帰ってきたの」 「お盆だからね。お前、酷い顔してるぞ。それにしてもだらしがないなァ。久しぶりにお兄様が帰ってきたというのに寝転んだままで挨拶もなしか」  朝、鏡を見て、疲弊しきって表情を無くした顔には自分でも驚いたもんだ。 「はいはい、お帰り」  統は軽くあしらう。 「なんだよぅ。もっと喜んでくれよ。俺が出て行くときにはあんなに泣いてたのにさぁ」  兄は拗ねたように言う。一々付き合っているときりがない。それに今はそのひょうきんに付き合う元気が出ない。 「なんだ、元気ないな。夏バテか」 「まあ、そんなところかな」  兄は隣に座り、母が出してきたスイカに齧り付いた。 「お前も食うか」 「じゃあ、一つ」  統は体を起こしスイカを取った。皿の上には三日月の形をしたスイカが残り六つ。恐らく一玉分切ったのだろう。「こんなに食べきれる訳がない」と統が思っていると、兄は既に二つ切れ目のスイカを食べ始めていた。もう片方の手には三切れ目を持っている。  これなら大丈夫か。すっかり忘れていたが兄は驚く程よく食べるのだった。  黙々と食べ続けていると、兄が顔色を窺うようにこちらを見てきた。 「本当に元気がないな。悩みならお兄様が聞くぞ。くだらなかったらぶっ飛ばすけどな」 「いいよ、自分で解決するからさ」 「そうか……なら少し外に出てくるといい。休みに入ってずっと家にいるんだろう。どこか連れて行こうか」 「ううん、いい。少しそこらを歩いてくる」  後ろで何か言っていた兄を無視して家を出た。  ぐるぐると答えの出ない悩みにだんだんと嫌気が差す。いや、悩み自体にではない。何も出来ない、遣る瀬無い自分自身に嫌気がさしている。  外へ出てきたものの、だらけていた体に真夏の暑い日差しは堪え、少し後悔した。  近くの海岸まで歩いてきたはいいが、することもなく、統は砂浜の上に腰を下ろす。  さっきは、兄があんな事を言ってくるとは思わず驚いた。いつもであれば帰宅するなりすぐ、恋人の家を訪ねて行く兄だ。  おおかた、母がなにか言ったのだろうと思っていたが、もしかすると心配してくれたのかもしれない。  兄のひょうきんも統を元気付けるためのものだったのかな。  こんなようじゃだめだな。  この前のことから、秋夜に何かがあった事には察しがついている。でもそれがどんな事であるか、訊かなければならないだろう。  それを取り除いてやる為にはなにをしたらよいのだろう。自分ではだめだろうか。 もし自分に出来ることがなくとも、このまま秋夜との関係が終息に向かうことを避けたい思いは強くあった。  秋夜との関係を諦めたくない。  それだけで十分じゃないか。  秋夜と話をしよう。  もうあんな哀しい顔をさせたくない。  そう思った瞬間、統は走り出していた。  統は秋夜の家に向かう。その足はだんだん早くなり先を急いだ。  強い陽差しが容赦なく降り注ぐ。息が上がって苦しい。それでも統は走った。  戸を叩くと秋夜が出てきた。彼は統を見て気まずそうな顔を見せる。 「秋夜。突然来て、申し訳、ないけど。どうしても。ちゃんと話がしたくて……この前の事とか」  息が上がり、途切れ途切れになりながら告げると、秋夜は静かに頷いた。 「秋夜に何があったのか、俺は知らない。秋夜のことを何も知らないんだ」  声が少し上擦る。 「でも、俺は秋夜と関係を作りたいよ。だって好きなんだ……」  泣き出しそうになりながら溢れる言葉を発する。自分はこんなに涙脆かっただろうか。 「俺に、秋夜のこと、話してくれないかな……」  秋夜とこれからも関係を続けていきたいのだ。  秋夜はきっと困惑しているだろう。  でも、秋夜の顔は辛うじて目に留めている涙の所為でよく見えない。 「統……」  秋夜の声は震えている。 「中で、話そう。入って」  案内された秋夜の部屋はほとんど物が無く、殺風景だ。置いてあるのは学校の道具と生活に必要なものだけという感じで、他にはなにもない。 「飲み物、持って来るね」 「ありがとう」  秋夜はグラスを持って帰ってくると、統の正面に腰を下ろした。 「……」  秋夜は言葉を探しているのか、話し始めない。 「ごめんね」 「ゆっくりで、いいよ。俺はずっと待っているから」 「話す、話したいんだ。でも、どう……話していいか」  どう話すか、考えているようだった。 「話すよ……」  秋夜はそう言うと深く息を吸った。  息を整えて、ゆっくりと語り始めた。 「どこから、話せばいいか、迷ったんだけど。全部話すよ」  秋夜は伏せていた目を開け、統を見た。 「先ず、転校してきた理由。ぼくの母は、今年の初めに亡くなったんだ……詳しくは分からないんだけど、病気だったらしい。心配を掛けたくなかったんだろうと思うけど、ぼくは何も知らなかった」  表情一つ変えずに秋夜は語る。 「ぼくは母子家庭だったものだから身寄りが無くなって、誰がぼくを引き取るかって話になったんだけど、母は親戚とあまり仲が良くなかったから……。ぼくは一度も会ったこともない父親のところに行くことになった。でも父には家庭があったんだ。今更関係は戻る訳じゃないし、向こうの家族はみんな戸惑ってた。ぼくもその空気が辛くて……居場所なんてどこにもなくて家を飛び出してしまった。あそこに居るだけでどうにかなりそうだったから。それから親戚の中で何回も話し合いがあってこっちに来たんだ。だから転校してきたのも中途半端だったでしょ」   統は言葉が出なかった。  統にとってこのような話は無縁で、どこかフィクションの世界でしかなかった。でもこれは現実なのだ。遠いと思っていた現実は案外近くにあるもだと、知らなかった。  統にはあまりにも衝撃的な話だった。 「こっちに来て、おばあちゃんも優しく、温かく接してくれるし……統と仲良くなって、ここには居場所があるのかもしれないと思えた。ここが心地の良い場所になっていた……でもそれと同時に危険だと思った。そんな感情を持ってしまうのは。ここで幸せな時間を過ごしたら……統が、ぼくの……特別な人になっていくのは。また失うかもしれないと思うと怖かったんだ。次は立ち直ることはできないかもしれないと思った」  時々、言葉が途切れながらも、秋夜は統の目をじっと見詰め続けていた。その瞳から真剣さがひしひしと伝わる。  統はそれに応えるように静かに話を聞いた。 「統の事、ずっと、好きだったけど。あの時、そのことが咄嗟に頭に浮かんだんだよ。だから……」 秋夜があまりに淡々と話しをするので、統の感情は置いてきぼりにされていた。 呆然と話を聞くことしか出来なかった。  秋夜の堅く握られたその手は微かに震えている。  秋夜もそりゃあ、緊張するよな。不安だろうな。 「統、泣いてるの」  秋夜の手が統の顔に伸びる。そのしなやかな指が統の目の下をそっとなぞった。 「あ……」 秋夜に言われて自分が泣いていることに気が付いた。慌てて涙を止めようとしても次々に溢れてくる。 「ごめん……」 何も、言葉が出なかった。 「でももう、大丈夫だよ。ぼくも統との関係を作りたい。さっき、統が言ってくれて、思った。どんな事もきっと乗り越えられるって思えたんだ」  やわらかい体温を持った秋夜の腕が統の背中に回された。その勢いで二人は床の上になだれ込む。 「統、ありがとう」  秋夜の鼓動が伝わってくる。きっと統のものも秋夜に伝わっている筈だ。 「ときや」  秋夜は沈黙したまま統の胸に顔を埋めている。統は秋夜の髪に指をくぐらせた。  秋夜が泣いているのかは分からない。でも統はずっと秋夜の背を擦っていた。  統はまだ静かに泣いていた。秋夜に対する様々な感情が流れた。  これから先、辛いことや困難また訪れるかもしれない。でも統には大丈夫だという自信があった。 (何があっても、秋夜との関係は決して諦めないよ)  統は心の中で誓った。  忙しい蝉の声や、子ども達の元気に遊ぶ声を聞きながら、二人はしばらくの間そのままでいた。 「あのね、ぼくも統のこと、好き……だから」  秋夜は統の手に自分の手を重ねて言った。  触れ合う体温は心地良くあたたかい。  二人はいつしかやわらかな微睡みの中にいた。

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