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第5話
――珈琲の匂いを頼りに矢代の言っていた部屋を見つけ、中に足を踏み入れた所で士乃はちょっと立ち止まった。そこに滝井の大きな背中が見えたからだ――彼は食卓で、マグを片手に珈琲を飲んでいる。
「おはよう……ございまぁす……」
士乃は滝井の向かい側へ回りながらおどおどと声を掛けた。相手はもしかしてすごい有名人なのかもしれない――その滝井は昨日と同じく、ニット帽にサングラスで顔を隠している。
テーブルの上には、コーヒーポットに並び、パン籠やカットされたフルーツなどが綺麗に盛られている皿が置いてあった。
「これ……食べていいの?」
滝井が頷いた。
「すげー。なんか、ホテルの朝ごはんみたいだね」
「ああ、そうだろうね。近くのホテルから届けてもらっているから」
「ええ?ホテルから?毎朝?」
「ああ」
「そうなんだ。はああ……」
士乃は肩を落としながら大きく溜め息をついた。
「どうした?」
滝井が訊ねる。
「だって……たっかいじゃん、ホテルの食事って……持って来てもらったりしたら一体いくらかかんだろうなあと思って」
滝井は唇の端をわずか持ち上げた。
「あ、センセイってば笑ってんな?しょうがねーじゃん、俺から見たらすげえ贅沢なんだもん。……あのさあセンセイ、また聞くけど、本気で……俺なんか雇ってくれんの?」
「……本気だよ」
滝井はコーヒーを飲みながら答える。
「そう?じゃあさ、報酬の事、まだなんにも聞いてないんだけど……いくら貰えんの?」
「……いくら欲しい?」
「え。そりゃあ……多けりゃ多いほどいいに決まってるけど――相場とかわかんないし……」
「身体を売るといくら貰えるんだ?」
言われて士乃は思わず滝井の――目は光を通さない黒いガラスにぴったりと覆われて見えないので――サングラスを見つめた。滝井はまっすぐ士乃に顔を向けている。
「……決まってなかった……大体数万とかだったけど」
「それよりは多く出すよ」
素っ気なく呟くと、滝井はマグカップをコトンと食卓に置いて立ち上がった。
「食べ終わったら、矢代に訊いてアトリエまで来てくれ」
「う……うん、わかった……」
食堂に一人残された士乃は、珈琲をカップに注いで啜り、籠から手近のパンを一つ取って齧りついた――それはバターをたっぷりと含んでいそうなクロワッサンで、そのままで充分美味かった。
「俺、先生怒らせちゃったかもしんない」
パンを食べ終えた時、タイミングよく食堂に――今は一人で姿を見せた矢代に士乃は言った。あの老紳士は帰ったのだろうか。
「え?なぜ?」
矢代がぽかんと尋ねる。
「いきなり金の話ばっかしちゃったから。浅ましい奴と思われたんじゃないかなあ……クビになるかな俺?」
矢代は微笑んだ。
「そんな事はありませんよ。そういえばいくらお支払いするか、まだ決めてませんでしたね」
「身体売るよりは――多く出してくれるってよ?」
「え!?先生がそんな事おっしゃったんですか?」
あきれたように矢代は言った。
「……らしくないなあ」
「そう?じゃないかと思った。……やっぱ大分、気ぃ悪くしたのかな……」
矢代に場所を教えられて士乃は、伸ばした廊下の先に建てられた離れのようなアトリエへ行った。天井が高く広いその部屋には、あちこちにイーゼルやスケッチブック、カンバスなどが雑多に置かれている――そこへ入ると、滝井は植物の鉢が並べられている出窓の前に立ち、うつむいて何かやっていた。
士乃はその滝井の背に向かい
「センセイ、怒っちゃったんだろ」
といきなり言った。
「金絡みの事ばっかり言ってくるからムっとしたんでしょ?でもしょうがないんだ、先生は金持ちだから気にならないんだろうけど、貧乏人の俺にとっては、一番重要な事なんだから。それわかっといて貰わないとさあ」
滝井はなにも答えず、鉢植えの、咲き終えたらしい花を摘み取っている。
「……気に喰わなかったなら……タクシー代だけ貰えばすぐ退散するよ」
士乃は仕方なくそう呟いた。
「気に喰わないなんて誰も言ってない」
滝井は外開きの窓をあけて手にしていた花殻を外に放り捨てると、士乃に向き直った。
「ただ君に――責められてるような気はした」
「えっ?」
「こんな所で優雅に絵なんか描いて、無駄に金を使って――道楽者のような生活を送ってる奴だ、と軽蔑したんじゃないのか?」
士乃は困って滝井を見た。責めてるつもりなんかなかった。そりゃあちょっと――羨ましい、とは思ったけど。
「軽蔑だなんて……俺が他人の事とやかく言える人間じゃないって……もうわかってんでしょ……」
弱々しく言った士乃の眼前に滝井がいきなりぐいと歩み寄った――思わず腰が引けてしまう。背の高い相手に覆い被さるように迫られるのは……怖い。かろうじて逃げ出さずなんとかその場に踏み止まった士乃の髪に、滝井は手を伸ばして触れ
「これは――脱色してるのか?」
と訊ねた。
「う……うん」
士乃は身を硬くして縮こまりながら頷いた。
「大分痛んでるな」
滝井は指で士乃の髪の毛を梳きながら言った。その手つきは――ゆったりと優しかった。
「――もっと大事にしろ――髪だけじゃなく、身体もだ」
なんと返答したらいいかわからなくて、士乃は黙っていた。
「私のモデルをする間は、君の身体は君だけのものじゃない。金は必要なだけ出すから、つまらない相手と寝たりするのは止すんだ――」
そう言うと滝井は士乃の髪から手を放し、置かれているイーゼルの中の一つへと歩いて行った。その背に向かって士乃は、縮めていた身体をそっと伸ばして肩の力を抜きながら
「うん――」
ともう一度頷いた。
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