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第8話 高校時代 -1-
「初見!掃除は終わったのか?」
教師の野太い声に背後から呼び止められ、下駄箱の前にいた士乃は思わず身を縮めた。
「終わり……ました」
生徒指導の岩内教諭だ――ビクつきたくないと思いながらも声が震えてしまう。
岩内はいかめしい顔つきの大柄な男で、以前、授業中に、うっかりよそ見をしていた士乃の頬をいきなり張ったことがあった――それ以来、士乃はこの教師が恐ろしい。
「終わったら帰る前に俺に報告しろと言ったろう!」
教師はずかずかと士乃に歩み寄ると、覆い被さるように目の前に立ち、上から見下ろして叱責した――こうして威圧感を与えれば生徒は萎縮し、素直に従うという事がわかっているからなのだ――
「来い。ほんとにちゃんとやったか確認するから」
階段を上がって行く岩内の後に、仕方なく士乃はうなだれて続いた。
――高校に入学して以来、この教師は特に何もしていない士乃をどういう訳か問題児扱いし、何かにつけて厳しくあたる――今日、岩内の授業は視聴覚室で行われたのだが、士乃はうっかりして移動するのを忘れ、少々遅刻してしまった。岩内はそれをねちねちと叱り、あげくに、士乃に視聴覚室を放課後一人で掃除するよう命じていたのだった。
教室に入ると、岩内はあちこちを点検しだした。
「ふん。……まあいいか」
特に因縁をつける箇所も見つからなかったようだ――士乃がほっとしかかった時、岩内は思い出したように掃除用具入れに歩み寄って扉を開けた。
「おい、これはなんだ。これもちゃんと洗って干しておかないか!」
中に置いてあった、バケツに丸めて突っ込まれたまま乾いている古い雑巾の塊をさして言う。
士乃は自分が使った分の雑巾はちゃんと洗って教室のベランダに干しておいた――岩内はここの備品の雑巾全てを洗えと言うのだろうか?そこまで自分が一人でやる必要があるのか?怒りを覚えたが、士乃は黙って岩内の前まで行ってバケツを取り上げ、水場へ向かった。
文句を言ったところで、聞き入れられないのはわかっているからもうあきらめている。おとなしく従った方が早いのだ――
入学間もない頃、地毛が茶色い士乃をつかまえて岩内は、染めているのだろうとさんざん問い詰めた。元々の色だと説明しても反抗するのかと言われて信用してもらえず、仕方なく士乃は、何か理不尽に思いながら、染髪料を買ってきて髪を黒く染めた。だが後から、他にいくらも明るく染めた髪色をしている生徒たちがいるのに気が付いた。あんなに口煩く不真面目だの校風にふさわしくないだのと岩内に責められたのは士乃一人だったのだ。
自分の何がそんなに岩内の気に触るのか士乃にはわからない。校内では極力目立たないようにしているつもりだ。だが教師はしつこく口煩く、些細なミスでも目ざとく気付き、士乃を叱り付ける。
バケツに入っている雑巾の塊を一枚ずつ剥がしてゆすぎ、全部きれいにして干し終わった時には外はもう暗くなっていた――やっと気がすんだらしい岩内から解放され、士乃は家路についた。
高校近くの停留所でバスを待っていると、士乃の担任教師の後藤がやって来て隣に並んだ。
「――あれっ?初見じゃないか。今日は随分遅いな。おまえ、部活も入ってないのに、何やってたんだ?」
若い教師は気さくに話しかけてくる。丁度到着したバスに乗り込みながら士乃は
「岩内先生の授業に遅刻したから、罰掃除やらされてたんです」
と答えた。
「罰掃除って?どこの?」
「視聴覚室」
「一人でか?」
「はい」
「あの広い部屋を?じゃあ遅くなるのも無理ないな。まったくあの先生は……生徒指導の責任者になってから無駄にハリキリ過ぎなんだよ……」
後藤があきれたように言う。
「ハリキリ過ぎ……そうなんだ……」
吊革を握りながら、士乃はうつむいて小さく笑いを漏らした。
駅前に着いたバスから降りると、後藤が
「疲れたろ……そうだラーメンおごってやろうか!……あ、お袋さんが心配するかな?」
と言う。嬉しく思いながら士乃は答えた。
「平気です。うち、両親共働きで帰り遅いから」
「ここ、美味いんだぜ。来たことあるか?」
後藤は駅裏の小さな中華料理店へ士乃を連れて入った。
「ないです。駅のこっち側って来たことなかった……いつもまっすぐ帰っちゃうから」
答えた士乃を、向かいの席に座った後藤がじっと見る。
「あのな初見……お前、あんまり友達いないみたいだけど、大丈夫か?いじめられたりとか……してないか?先生に相談してくれてかまわないんだぞ?担任なんだからな」
真剣な顔で切り出され、士乃は笑った。
「先生もしかして、それ心配してラーメン誘ってくれたの?」
「いや?うーん、まあ、な」
「大丈夫。いじめとかってわけではないよ。でも俺、岩内先生に目つけられてるでしょ?だからみんなあんまり俺と一緒にいたくないみたい。まとめて怒られちゃうからさ」
後藤が溜め息をつく。
「可哀相になあ……」
「平気だよ。もう慣れたもん」
「……外見に似合わずしっかりしてるんだな、初見は……」
「チャラく見えるもんね、俺」
「そんなこと言ってないだろ……」
「岩内先生はいっつもそう言うよ」
「……あんなのと一緒にするなよ」
後藤は憤慨した風だった。そうして、運ばれてきたラーメンに箸をつけながら
「教師だなんて言ったって、ただの人間だ。みんながみんな人格者ってわけじゃあない――岩内が理不尽な振る舞いをしてきたら、俺を頼れよ?」
と言ってくれた。
生徒の前で、後藤が同僚教師を軽蔑したように呼び捨てたのがなんだか嬉しく――彼に好意を抱きながら士乃は頷き、熱いラーメンを啜った。
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