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第15話

士乃が滝井の元に来て、三週間ほど経とうとしていた。 滝井は下絵作業を終え、今は本番の油彩に取り掛かっているようだ――ここでの士乃の役割は間もなく終わってしまうのだろうか……士乃はひたすら絵筆を動かしている滝井の姿を見つめながら考えた。 アトリエに呼ばれる時を除き士乃は自由にしていて良かった。だがここはあまりに駅のある町から遠いので、足の無い士乃が気軽に出かける訳にも行かない。そのため仕事以外の時間には、広い家の中や辺りの山道を散策したりして過ごしている――そんな士乃を見て、ある日矢代が気づかわしげに言った。 「……初見くんみたいな若い子には相当退屈なんじゃないかい?休んでいいって言われたって、ここじゃ何もすることないものね……」 士乃は笑って矢代に答えた。 「いいんだ。こんなにのんびりできるの、久しぶりだから」 二人はアトリエの前庭に置かれているガーデンチェアに腰掛けて話していた。山の中腹の滝井の家からは、周囲を囲む木々の間に麓の集落が見下ろせる――家々の瓦屋根が所々太陽の光を反射して、濡れたように輝いていた。 「そう……向こうじゃ忙しくしてたの?」 「ん?うーん……忙しかったって言うか……」 士乃は簡単に、岩内とのいきさつを話した。矢代が心配そうな顔をする。 「そりゃ困ったね……。何か……手を打ってみようか?」 「手を打つ……どうやって?」 「そうだな、とりあえず……先生のお客さんに教育委員会関係の人がいるから、頼んで圧力かけてもらうとかかな……教師なんだろ?そのストーカー」 「うん。でも……そしたら俺が付き合ってた先生のこともばれちゃわないかな……」 「ああそうか……それはまずいか……じゃあ、何か他の方法で……」 考え込んだ矢代に、士乃は明るく言った。 「大丈夫大丈夫!今までだって上手くやってたんだからさ、なんとかなるよ!」 「やれやれ……後々まで結構やっかいなもんなんだね、教師と生徒の恋愛っていうのは……」 気の毒がって言う矢代を見ながら、士乃は真顔で呟いた。 「あれ……恋愛、だったのかなあ……?」 「そりゃそうだろ。好きだったんだろ?お互い」 「俺は……好きだったけど。でも……先生は……一人ぼっちだった俺に同情してくれてただけかもしれない……だってさ、俺あん時16、かな?今そんくらいの歳の連中見ると、すっげガキだなって思うもん。あんなんじゃ恋愛対象になんないよ……」 突然矢代が吹き出した。 「え!?なに!?俺なんか変なこと言った!?」 「いやその……だって、初見君、いくつ?」 「19だけど?書類に書いたでしょ?」 士乃が答えると、矢代は今度は下を向いてくすくす笑っている。 「なに?なんなの!」 「いやいや……きみ……可愛いなと思って……」 「ちぇーっ。どうせ俺もガキだって言いたいんだろ、わかってるよう……」 士乃はぶつくさ言いながらガーデンチェアの上で頭の後ろに腕を組み、伸びをした。 「滝井先生もさ、俺のこと、すっごく子供みたいな顔に描くんだよ?きっと先生にもガキだと思われてるんだろうなあ……」 「ああ、先生のそれはね、違うんだ」 矢代が断言したので、士乃はきょとんとなって尋ねた。 「違うって……なにが違うの?」 「先生の描かれる絵は、写生じゃないからね」 士乃は不思議に思った。 「でも、写生じゃなかったら……モデルはいらないんじゃないの……?」 「モデルは必要なんだよ。先生が描くのはモデルにした人物の外見そのままじゃなく……つまり、対象の内在する自我に、深部で結びついた本質をえぐり出し画面に載せていくという……」 矢代の説明に士乃は顔を顰めた。 「ゴメン……ぜんぜん意味わかんない」 矢代は小さく肩をすくめて微笑んだ。 「だよね。実は僕もわかんないんだ。今のは美術評論家の先生の受け売りだから」 「なあんだ」 景色を眺めながら矢代は呟く。 「そういう難しい分析はよくわからないけど……先生は芸術家だから、普通には眼に見えないものを見る力がある人なんじゃないだろうか、と僕は思ってる……きみを幼く描くのも、きっと先生には何か理由があるんだよ……」 「理由……そうなのかな……」 矢代は続けた。 「先生が本気で描きたいって望む人物は、実はすごく、少ないんだ……依頼を受ければ肖像画でもちゃんと描く人だけど、きみにしたように、自分から描かせてくれと声をかける事は滅多に無い……先生が言うには、描くべき対象は時が満ちなければ出会えないものだから、こちらから見つけ出そうと無理に探しても無駄なんだそうだ……」 するとアトリエの建物の方から、滝井の声がした。 「そう。私は常に、そういう相手が現れるのを心の底から待ちわびている……だが、描くべきと感じる相手がいても、モデルになるのを断られる場合も多い。だから初見君に出会えたのは……とてもラッキーだった。きみには悪いが、私は初見君を追い出した彼氏に密かに感謝している。そうでなければきみがここに来ることはなかっただろうから」 士乃は滝井を見た。アトリエから出て近づいてくる滝井の姿を、庭木の葉陰が模様となって彩っていた。 「先生今の話聞こえてた?」 「ああ」 頷きながら滝井は士乃の隣の椅子に腰掛けた。 「休憩ですか」 「ああ。矢代、コーヒー淹れてくれないか」 「はいはい。ただいま」 いそいそと食堂の方に向かう矢代の後姿を見送って、士乃は訊ねた。 「矢代さんて……先生の恋人?」 「いや。一応言っとくがあいつは同性愛者じゃないぞ。婚約者がいるらしい」 「婚約してるの?そうなんだ……」 滝井は士乃の顔を眺めるようにしている。 「きみは……矢代が好きなのか?」 「え!?なんで!?」 「今がっかりしてたみたいだったから」 「がっかりなんかしてないって!からかうなよ……」 口を尖らせて士乃が文句を言うと滝井は笑った。 顔は相変わらず殆ど見えないのだが、士乃がそれを不安に感じることはもう無い。はじめは威圧的に感じて恐ろしかったその大柄な体躯にも、今では怯える事も無い。 ひと月近くも側にいたから、慣れたのかなあ、と士乃は思った。けれど自分はいつまで……ここで必要とされるのだろうか。滝井に訊こうかとも考えたが、期限を知るのが怖くなって止めてしまった。そうして士乃は……思っていたより自分が静かなこの山中の家から……離れ難くなっているのに気が付いた。

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