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第16話
「今週末東京だけど……手配できてる?」
士乃が夕食に呼ばれて食堂に入っていくと、滝井が矢代にそう訊ねているのが聞こえた。
「はい、できてますよ」
「先生、東京行くの?」
「ああ。きみも一緒に来るといい。ずっとこんな山の中で退屈だったろう」
「べつに……退屈ではないけど」
「長い間不便な場所に拘束してすまない。でももうすぐ絵も仕上がるから――」
言われて士乃の心臓が、どきりと跳ね上がった。
「私に付き合うのもあと少しだ。そうだ、きみは――戻っても住むところがないんだったな……今回ついでに探しておいたらいいんじゃないか?矢代、どこか手頃な――」
「――大丈夫」
士乃は滝井を静かに遮り
「平気だよ。戻ったら泊めてくれる友達、何人か心当たりあるし。大丈夫。なんとかなる」
自分に言い聞かせるようにそう答えた。
あと少し――滝井が言ったその言葉を士乃は寂しく胸の内で噛み締めた。初めからそういう約束だったんだからわかってたのに、なんでこんなにがっかりしてるんだろう……
それは……アトリエ で絵を描く先生の側にいるのが――あんまり心地良くなってしまったから――
「どうした?」
「えっ!?」
「ちっとも箸が進んでいないじゃないか。いつもよく食べるのに」
「あ。ちょっと……ぼうっとし……」
滝井に問いかけられた士乃は顔を赤くして慌てて答えた。すると食卓の向かいから、滝井はいきなり士乃の方に身を乗り出してきた――それに少し驚いて言葉を飲み込んだ士乃の額に、彼は腕を伸ばして掌をあて
「どこか……具合が悪いんじゃないか?」
と尋ねた。
「病気じゃない……よ……」
温かく大きな滝井の掌は、額から目までをすっぽりと覆ってしまって――士乃はその中で瞼を閉じた。ずっとこうしていてもらいたい――自然に湧いた自分の感情にハッとさせられる。
「熱は……なさそうだが……」
滝井が手を引っ込めるのを、士乃は心の内で名残惜しく見送った。
「平気。食べる。ちょっとぼんやりしただけだから」
笑って士乃はご飯茶碗を取り上げた。
週末――田舎ののんびりとした景色にはあまりそぐわない気のするスポーティな車で、士乃たちは東京へ向かった。滝井が開く個展と、それに伴う作品販売のためらしい。
矢代はちゃんと、士乃にもホテルに一室とっておいてくれていた。
綺麗に整えられたベッドに寝転がって、ぼんやり考え込む。
自分は滝井先生が――好きなんだろうか。
うん、好きだ、と士乃は思った。岩内に乱暴されて以来、ああいうがっしりとして大柄な男性は恐ろしく感じ怯えてしまう。だが滝井になら――彼の身体と、あの優しい掌になら――包まれてみたい、となぜか思う。
俺、先生に欲情してるのかな。
サングラス越しだけど、ずっと見つめられ続けてるから……寝るとき以外に俺を真剣に見てくれる人なんて、今までいなかったから……
先生はどうなんだろう。
士乃とアトリエにいる間、個人的に滝井を訊ねてくる女性は誰もおらず……恋人がいる様子は無い。彼は若い男性を描く事が多いようだけど――でも、だからって、同性愛者だとは限らない。
誘ってみたら、わかるだろうか――ついそう考えてしまって、すぐ否定した。そんなの駄目だ。先生に失礼じゃないか。……やっぱ俺って、軽いんだな……。
それに……滝井の絵を見てわかったこと――彼は恐らく、士乃を通して滝井自身が持つ世界を見ているだけなのだ。矢代は、芸術家の滝井の眼には――普通には見えないものが見えるのだろうと言っていた。
滝井の世界――そこには現実の士乃とは全く違う士乃が存在するのではないだろうか?滝井が描く、精巧な人形のように美しい士乃が ――。
滝井に見つめられているのはきっと、ここにいる生身の自分などではないんだ。もし滝井が愛するとすればそれは――士乃であって士乃ではない、あの絵の中でだけ生きている少年なのかもしれない。ふとそう感じ、士乃はひどく――寂しくなった。
窓の外には高層ビル街が霞んで見えている。
滝井と矢代は仕事で出てくるので、夕食までの間自由にしていいと言われていた。そうだ、仲間の所に顔を出しておかないと、と思い付き、士乃ははずみを付けてベッドから起き上がった。
久しぶりに乗る地下鉄はひどく混雑して感じられる。最初は戸惑ってしまった急流のような人の流れにも、馴染んだエリアに近付くにつれ、カンが戻ったように楽に乗れるようになってきた。
「あれっ、士乃じゃん!」
いつも徘徊していたアミューズメントセンターに行くと、さっそく知った顔に声をかけられた。
「なんか久しぶりなんでない?」
「うん。ちょっと東京離れててさ」
仲間の一人が遠慮がちに声をかけてきた。
「士乃……吉塚さんが探してた……連絡したげなよ……」
「吉塚さんが?」
吉塚は、士乃を追い出した同棲相手だ。士乃は顔を顰めて呟いた。
「でも吉塚さん、俺のこと、脅すみたいにして部屋から叩き出したんだぜ?なんで今更探すかなあ?」
その時、賑やかに喋りながら入店してきた若者のグループが士乃に気づき、駆け寄ってきた。
「士乃じゃねーか!よかった、こいつ生きてたよー」
「そりゃ生きてるよ……」
「ひぇー、士乃!なんだよ全然顔見せないから寂しかったんだぜこのヤロー!」
暫く振りに会う友人たちに囲まれて、士乃は少々照れくさくなりながら笑った。
「どこ行ってたんだ?」
「家帰っちゃったのかと思った」
「うん――今、山の中で住み込みでバイトしててさ。終わったら帰ってくるから遊ぼ。そしたらまたアパート泊めてくんない?」
「いいよ。え?山ん中に住み込みって……まさかトンネル掘ってるとか!?」
「トンネルって……違うよ、画家の先生の所……あ、そうだ、先生に小遣いもらったんだ。ヤスの奴、まだカラオケでバイトしてる?」
「うん」
「じゃあそこ行こうよ。俺おごれるからさ」
「まじ?やった!」
5人ほどのグループで、ヤスと呼ばれている知り合いがバイトするカラオケボックスに入った。
皆で賑やかに騒いでいると突然扉がノックされた。ドアにはめられたガラス窓から中を覗き込んでいるのは――吉塚だ。一瞬、場が静まり返る。
「士乃。出て来いよ。行こう」
士乃は友人に挟まれて座ったまま、吉塚から顔を背けて答えた。
「行かねえよ。だって今更、何の用?」
「士乃……」
隣の友人が気遣わしげに士乃の袖を引く。
「行ってやりなよ……吉塚さんずっと探してたんだぜ、士乃のこと……」
「……お前が連絡したのか?」
士乃は忌々しく思いながら彼に訊いた。
「うん……だってさあ……頼まれてたから」
吉塚は硬い表情で中に入って来ると、士乃の腕を掴んで無理やり立ち上がらせようとする。士乃は抵抗してそれを振り払おうとした。
「放せよ!行かないって言っただろ!?」
「お前……いつから俺にそんな偉そうな口利くようになったんだ?今までどこにいた?」
「関係ないだろ!追い出したのあんたじゃないかよ!――なんだよ!?放せってば!」
小部屋から引きずり出そうとする吉塚と士乃がもみ合っていると、ヤスが両手に注文した料理の皿を持って現れた。
「お、おい!?あんたら人の職場でケンカ沙汰なんか起こしてんなよ!クビになったらどうしてくれんだ!やるんだったら外でやってくれ!」
士乃はシートから立ち上がって自分の腕を吉塚の手から乱暴にもぎ放すと、皿を持ったままのヤスのエプロンのポケットに一万円札を突っ込んで店を出た。
カラオケ屋を出て裏通りを歩き出した士乃の肩を、追って来た吉塚が後ろから捕まえようとする。士乃は身体を捩ってそれを避けた。
「待てよ士乃。あの時は、あんなもん見ちまって気が動転してただけなんだ。あのあとすぐお前探したんだけど、どこにもいないから――」
「吉塚さんとは終わったろ。じゃ」
再び歩き去ろうとすると、吉塚は今度は士乃が着ているパーカーのフードをぐいと掴み、吊り下げるようにして自分の元に引き寄せた。
「なにす――やめろよ!」
「逃げんなって……どうせ行く所なんかないんだろ?またうちに置いてやるから帰って来いよ……」
「だから行かねえって言ってんだろ!?しつこいな!」
吉塚はもがく士乃を強引に抱き、パーカーの中に手を突っ込んで身体をさぐってきた。
「そんなつれないこと言わねえでさあ……なあ、久しぶりにやろうぜ?良くしてやるから……そうすりゃお前だって気が変わるよ……」
結局やりたいだけなんだ……士乃は思った。自分のことを――薄汚れたやつと蔑み、もう寝る気になれないなどと言ったくせに。
詫びようともしない吉塚の身勝手さに士乃はひどく腹が立ち、両手で彼を押しのけて怒鳴りつけた。
「気なんか変わるもんか!行くとこぐらいある!一緒に住んでる人と、今だって――いいホテルに泊まってるんだからな!」
吉塚が馬鹿にしたような笑みをうかべた。
「なんだそりゃ……ホテル?毎晩買ってくれるお得意さんでも見つけたのか?」
「ちが……」
そんなようなものかも知れない、と士乃は思いながらも言った。
「違う。恋人だ。ちゃんと俺のこと大事にしてくれる人だ」
「まさか……寝ぼけてんなよ……」
吉塚は嘲るように言う。
「お前みたいな誰とでも寝る安いやつに、本気になる相手がいるかよ。そいつだってどうせ身体目当てなんだろ?なにしろお前の取り柄は顔と身体、それだけだからな」
ああ、そうだよ、と士乃は思った。先生は、自分を絵のモデルに雇っただけだ。しかも先生に必要なのは、士乃自身の生身の肉体ですらない――
「取り柄がそれだけでも必要としてくれる人はちゃんといるんだ。大金持ちで――高級車に乗って、山の中にアトリエ持ってるような人だよ。俺が別の男と付き合ってたこと話したって責めたりなんかしなかった。吉塚さんみたいにすぐ掌返すような冷たいやつとは大違いで、すげえいい人なんだ」
なんで俺、こんな虚しい嘘ついて、こいつを挑発するようなことしてるんだろう――
「あんたこそ……安いやつにしか相手してもらえないくせに、偉そうにしてんじゃねえよ!せいぜい頑張って次引っ掛けるんだな!」
言い捨てて立ち去ろうとした士乃の鳩尾を、吉塚がいきなり横から膝蹴りにした――息が詰まって目の前が暗くなる。よろめいた士乃の胸ぐらを掴んで殴りつけようとしてくる吉塚の拳から、士乃は顔を庇って叫んだ。
「やめろよ!俺は今恋人の絵のモデルやってんだ!俺だけの身体じゃないんだからな!傷付けやがったらただじゃ済まないぞ!」
「モデルだと?へえ……」
吉塚は士乃をアスファルトに突き転ばし、馬乗りになってきた。助けを呼ぼうかとも思ったが、ここいらの人間は――士乃の友人たちを含め――面倒ごとに巻き込まれるのを嫌うから多分ムダだろう。
士乃の上で吉塚が低く言う。
「だったら……それがもう勤まらないようなご面相に……してやろうじゃねえか……」
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