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第17話

士乃はパーカーのフードをすっぽりと被って顔を隠し、地下鉄には乗らず、ふらつきながらホテルまでの道程を歩いた。丁度小雨が降りだした所だったのでその様子も特に奇異には思われなかったようだ。よく見れば服に血液の染みが跳んでいるのがわかるだろうが、もう辺りは薄暗くなっていたので見咎める人もいない。 ホテルのエントランスでポーターに声をかけられたが、俯いてフードを被ったまま無言でカードキーをかざして見せると、宿泊客だと納得したようで追っては来なかった。 人目を避けてなんとかロビーを横切り、エレベーターのボタンを押す。泊まっている7階まで上がって士乃は滝井の部屋のドアをノックした。 出てきたのは矢代だった。 「あ、初見くんか。今、部屋に呼びに行こうかと……えっ!?その顔……!え!?ど、どうしたの!」 「ケンカしちゃった……」 士乃は言いながら、くたくたと部屋の入り口にくずおれた。急に全身の力が抜けてしまい、どうしても立ち上がれない。 「ケンカって!だ、大丈夫!?」 カーペットの上でへたり込んでしまった士乃を、歩み寄ってきた滝井が無言で抱き上げた。 「先生ごめん……約束守れなかった……雇われてる間は大事にしろって言われてたのに」 「黙ってろ。唇も切れてる」 「クビだよね。こんなになっちゃったらもう、モデルなんかできやしない……」 「……黙ってろって言ったろう」 滝井は自分の部屋のベッドに士乃を寝かせると、フロントへ電話して医者を手配させた。 手当てしてもらっている間、滝井は何度か医者に、痕になるようなことはないですか、と確かめていた。それを聞きながら士乃は、そうだよな、自分の取り柄は……顔と身体だけだもんな、と考え、悲しくなった。 その晩熱を出した士乃に、滝井はずっとついていてくれたようだ。 夜半、傷の痛みと熱にうなされて目を覚ました士乃が、腫れ上がって少ししか開かない目を無理矢理こじあけると、すぐ近くに滝井の大きな身体があった――思わずそれに向かって手を伸ばすと、気付いた滝井が士乃の手を取って握り返してくれた――ような気がしたが、熱が見せた夢だったのかもしれない。 翌朝――ますます腫れがひどくなった気がする顔で、士乃は枕もとの滝井にまわらない口で呟いた。 「先生ごめんね。ありがとう……」 「誰にやられた?ストーカー教師か?矢代がそうじゃないかと言ってたが……」 「ううん。俺を部屋から追い出した人……。久し振りにやろう、なんて人をバカにしたこと言いやがるから頭きて、わざと怒らせるようなこと言ったんだ」 「なにを言って怒らせたんだ。ひどい有様だぞ」 ガーゼやら絆創膏やらで覆われた顔で士乃は笑った。 「恋人の絵のモデルしてるって言ってやったんだ。だから、傷付けるな、って」 滝井は一瞬沈黙し、サングラス越しに士乃の顔を見つめ――小さなため息とともに言った。 「そんな挑発するような事を言うから……顔ばかり集中してやられるんじゃないか……」 「だよねえ」 「馬鹿だな……」 「だよねえ……でも……悔しがらせてやりたかったんだ……」 「ホテルの方へ世話は頼んでおくから、今日はここで休んでいろ。仕事の話がすんだらアトリエ(むこう)へ戻る。その状態で長時間車に乗るのは辛いかもしれないが……」 「え。でも、この顔じゃもうモデル……無理じゃない?」 「大丈夫だ。痕にはならないと医者は言っていたから、治るまで待つ」 「治るまで?じゃあその間は……先生と一緒にいられるってこと?」 思わずそう口にした士乃の顔を、滝井は真っ直ぐに見た。 「士乃。私の……本当のモデルになりたいか?」 丁度そこに、迎えに来た矢代がドアをノックしたので、滝井は、詳しい事は帰ってから話そう、と言い残して出て行った。 静まり返ったホテルの部屋で、士乃はちゃんと開かない目で天井を見上げて考えた。本当のモデル?それって……どういう意味だろう。 でも……なんでもいい。なんでもやりたい。どんなことでも先生に――必要としてもらえるのなら。 そう思いつつ士乃は再び浅い眠りに落ちた。 夕方、戻って来た二人とともに、士乃は車に乗り込んだ。滝井は昨夜の士乃の看病で寝不足だったせいだろう、隣ですぐに眠ってしまったようだ。士乃も一日ベッドに横になっていたのに、まだ熱があるのか体がだるく、うとうととした。 ふと目が覚めると滝井の胸に頭を預ける格好になっていた。滝井はまだ眠っていたが士乃の肩を抱いてくれている。その大きな掌の重みが心地よくて、士乃はそのまま、じっと滝井に身体を寄せていた。 矢代が運転する車はとうに東京から離れたらしく、窓の外には沢山の星が――暗い夜空に瞬いていた。

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