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第18話
滝井の家で療養しながら士乃は、この怪我がずっと治らなければいいのに――と夢想した。
治らない間は先生のとこにいられる、だから――だが、若い士乃の身体は順調に回復し、やがて医者が言った通り傷はほぼ跡形もなく――消えた。
そうして士乃は、暫く振りに再び滝井のアトリエに呼ばれた。
以前と同じ椅子に座らせた士乃の頬を、前に立つ滝井が手の甲でそっと、確かめるようになぞる。
「良かった。すっかり治ったようだな……心配したぞ」
「心配?俺を?先生が?」
士乃は目を閉じ、離れて行こうとする滝井の手に、追い縋るように顔を寄せた。
「ああ……つまらない相手に――一生残る傷痕なんかつけられたら……バカバカしいだろう……」
士乃の様子に気付いたのか、滝井は戻そうとしていた手を留め、肌に触れたまま呟いた――わずか後、その手で滝井は士乃の頬を優しく叩いて合図し、目を開けさせてカンバスの前に戻った。士乃の肖像に再び取り掛かる。
あれが出来上がれば、ここでの仕事は終わりなんだ――
そう思いながら士乃は滝井の作業を見守った。滝井の言っていた「本当のモデル」の意味は、まだ説明されていなかった。
「先生」
呼び掛けられて滝井が、カンバスから士乃に視線を移す。
「先生、それが描けたら――俺達……もう、終わり?」
ついそう訊ね、士乃は吹き出した。
「ごめん、なんか――変な聞き方しちゃったな」
「――恋愛物の台詞だな、今のは」
滝井が言う。
「うん……」
恋愛。士乃の、一方的な。
ぼんやりしかかった士乃を滝井の言葉が引き戻した。
「士乃。私のために――モデルになりたいか?」
先生のため?
「前言ってた……本当の?」
士乃の問いに滝井が頷く。
「おいで」
筆を置いて、滝井は立ち上がった。
士乃を伴って、絵の飾られた長い廊下を歩きながら滝井が言う。
「ここにあるものは……私の仕事の、表に知られた一面だ」
士乃は壁に目をやった――そこには華やかな色合いの芍薬の絵が掛けられていた。複雑な形の花びらが、光を透かしながら幾重にも重なりあっている。
「展覧会に出し、画廊に並べて、売るための作品。ホテルのロビーや、誰かの家の居間に飾られる絵……」
「うん」
こんなに綺麗な絵を手元に置いて、毎日眺めることができたら幸せだろうな、と士乃は思った。俺にも買えたらいいのに……高くてとても無理だけど。それに飾る場所もない……。
「そうして……私にはもう一つ、違う仕事がある。こっち」
違う仕事、とは?何のことだろう。
滝井は士乃を連れ、家の奥にある半地下の部屋へ続く短い階段を降りた――突き当りの木の扉を開けると、中は、小さな窓が一つしかない薄暗い、書庫のような部屋だった。
壁に沿って棚がめぐらされている――そこから滝井は大きなファイルを取り出してきた。士乃の前にそれを持って来て、開いて見せる。
「驚くかもしれないが――」
そこに納められた絵を見て――表面に光沢がある。複製らしい――士乃は目を見開いた。それはどれも――裸の男性が、艶かしく絡みあっているものだったのだ。
「いわゆる春画に近いものだ。男同士の」
滝井はファイルを閉じながら言う。
「どういうわけか私のこの手の作品は人気があって――単にそういう趣味の人間が意外と多いと言うだけの話かもしれないが――表に飾っているものよりも高値で売れるんだ。顧客は男性も女性もいるし、海外にもいる」
独り言のように続けた。
「特によく売れるのが――表の肖像画と同じモデルを使ってここにあるような行為をさせて描いたもの。そうすると、客はセットで買っていくんだ――」
「じゃあ」
士乃は手を伸ばして、滝井の持つファイルを取りあげながら言った。
「俺の表の画廊用の絵はもうできてるから――あとはこっちの」
ファイルを開き中の絵を見る――殆どが、筋骨逞しい大男に、美しい若者がそのしなやかな肢体を押しひしがれて苦悶している場面だった。時として大きな男は、獅子や雄牛の頭を持つ異形の怪物として描かれており、凶暴そうなそれらに貪られる相手は、まるで生贄のようだった。
「――こういう絵のモデルになれば、いいんだね?」
「ああ」
滝井が頷く。
「無論、君次第だ。今までのように座ってればすむという仕事じゃないし、相手役のモデルの男性と一緒にいてもらわなくちゃならない――それが――どういう意味かは説明しなくともわかるだろうが。――士乃」
名を呼ばれて、士乃は滝井の顔を見た。
「はじめにきみに声をかけた時から、正直こちらの種類の絵のモデルをしてもらうことが念頭にあった。きみのようなタイプは概して――脱ぐのにも、男に身体を触らせるのにもさほど抵抗がないから」
士乃は自嘲的な笑みを浮かべながら答えた。
「うん、そうだよ――軽いんだ」
だが滝井は首を振って
「違う」
と言った。
「君を描いていて思った。君は若くて、人形のように綺麗な外見をして――私がいくら望んでもけして得られないものを持っている……なのに、君から伝わってくるのは――どうしようもない悲しみや寂しさばかりで――」
ふいに滝井はサングラスを外した。苦しげな様子で、露わになった傷の上から片手で両の瞼を押さえる。
「どうしてだろう――なんでこの子は――こんなにも空虚なんだろうか、と思った。きみは……怯え切った小さな子供のようにしか見えなくて――簡単に脱げなんて言えなくなった。言わない――つもりだった」
「そうだったんだ」
なぜだか士乃は嬉しかった。
「先生、俺ね……長いことなんにも考えないようにしてたんだ。だからダチにも、士乃はいつも楽しそうにへらへらしてて羨ましいって言われてた。けど、ずっとそうやってるうち――自分がほんとは、何をどう感じてるのかがわからなくなってきて――」
滝井の半分塞がった目が士乃を見つめている――士乃は思った。この優しい目は――自分が忘れたふりをして無理矢理遠ざけていたものを――代わりに全て見てくれたのだ――
「本当は――寂しいだとか悲しいだとか――それがどんなに辛い感情でも、自分でちゃんと……認めなくちゃいけなかったんだと思う。でも俺は……怖くてずっと逃げてたから……先生が、俺の代わりにそういうのを全部――受け取っちゃったんだと思う……」
「代わりに?そうだろうか――」
「うん」
だから――自分は滝井に魅かれたのだ――
「先生、俺、先生のモデルになりたい。本当のモデルに」
「士乃、断ってくれ。こんなのは嫌だと――言ってくれ。きみが断れば私は――あきらめられる」
「断らないよ」
「させたくないんだ、きみには。こんな――残酷な絵のモデルなんて」
滝井は辛そうに言った。
「なのに――描きたいんだ。きみの身体が誰かに滅茶苦茶に踏み躙られ――犯される様が描きたい。きみにこんな酷い事を望むなんて、私は――」
「描いてよ」
士乃は挑発するように言った。
「描いて欲しい。そうしたらきっと――今までの先生の絵のどれよりも、高く売れる作品を描かせてあげるから――」
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