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第21話

翌日の仕事のあと、ローブを羽織ってアトリエを出た士乃に、正岡が心配そうな様子で話しかけてきた。 「なあ士乃……お前、このままじゃ、やばいんじゃないのか……?」 「えっ?どういう意味?」 先刻滝井のためにポーズを取っていた最中、正岡と抱き合っていた士乃はいきなり、近くの床に転がっていたペインティングナイフを取り上げるとそれを自分の肌に当て、腹部に縦に細長くひっかき傷を付けたのだった。そうして、赤く付いた筋の上へわずかに滲み出て玉を作った血液に、正岡の顔を押し付け舐め取らせた―― 正岡は頭に片手をやりながら、困ったように俯いて言った。 「俺は乱暴かもしれないけど……ああいう趣味は無いんだぜ……?」 「そうだよね、わかってる……ごめん」 士乃は正岡に侘びた。 「先生のイメージの手助けしたかっただけなんだ……あそこに、傷を欲しがってたから」 「傷を?でも……先生何も言ってなかったぞ?」 「そうだっけ?だけどなんだか、そんな気がしたから……」 正岡は不安そうに続ける。 「スケッチ見たけど……最近の先生の描くもの、今までに比べて随分残虐になってる気がするんだよ……それに――あんな風に縛ったり、モデルが痛がるような行為なんて……絵の中でだけで、実際にさせた事は無かったのに……」 「そんなに心配しないでよ。俺も先生も冷静だよ。今日のだって、あれ普通のナイフじゃないのわかっててやったんだから」 「でも……エスカレートするような事にならねえかな……」 「ならないって。大丈夫。それにほら、矢代さんもいるし、ほんとにやばかったらあの人が止めてくれるよ」 士乃は正岡を慰めるように笑い、彼の大きな背中をぽんと叩いた。 その晩、滝井は制作に没頭しているのか、食事時間に現れなかった。 矢代や正岡と先に食べ終えていた士乃が、夜半に食堂を覗くと、遅い食事をとっているらしい滝井の姿がそこにあった――しかし彼は食卓で何か考え事をしているようで、ステーキ片を突き刺したままのフォークを握り締めて動かない。 「……先生」 士乃は静かに声をかけ、滝井の傍らに寄り添って立った。滝井の前の皿の上には、切り刻まれ、肉汁にまみれたステーキが載っている――滝井はじっと、それを見つめているようだった。 士乃は滝井の脇に立ったまま、着ているTシャツの裾に手をかけそれを脱いだ。続いて、履いていた部屋着のスウェットと下着を膝あたりまで押し下げると、テーブルの上に置かれている滝井の飲みかけの赤ワインのグラスを、手を伸ばして取り上げた。 滝井が士乃に顔を向ける――士乃はその滝井を上から見つめながら、身体を反らし、露わになった肌の上でワイングラスを傾けた。胸から腹部を伝って――赤い液体が、士乃の脚の間まで細い筋を作って流れ込む。 滝井は掴んでいたフォークを皿の上に置き、士乃の腰に手を回して引き寄せると素肌に唇をあて、伝い流れてくるワインを啜った。 「ワインじゃ粘度が足りないね……ステーキソースの方がいいかな。その方がゆっくり垂れて……」 自分の肌を吸う滝井の頭を抱くようにしながら、士乃は呟いた。 「……もっと血に近く見えるかも」 「――大丈夫だ。今ので」 滝井はじっと、士乃の腰を抱いたまま答えた。 「――士乃」 ややあってから滝井が口を開いた。 「ん?」 「私が好きか?」 「うん」 士乃はテーブルの上にワイングラスを戻しながら頷いた。 「士乃……すまない。私は……同性愛者と言う訳じゃないんだ。君の身体に対してあんな行為をしてしまったし、描いている絵もああいう内容だしで……誤解させてしまったかもしれないけれど――」 士乃は微笑んだ。 「わかってる。謝る必要なんて無いよ」 「以前……モデルに雇った男に、しつこく関係を迫られた事があった。私は苛つき……それならいっそ望み通り犯して痛い目を見せてやろうと考え、彼を寝室へ引きこんだ。でも……できなかった。勃たなかったんだ」 「当たり前だよ」 士乃は滝井の膝の上に甘えるように横向きに腰掛けると、彼の首に腕を回した。 「だからと言って異性を抱く機会も無い」 滝井は、士乃が絡めている腕の隙間に手をくぐらせてサングラスを外し、次いでニット帽も剥ぐようにして脱いだ。痛ましい傷痕は額から頭部へ広がり、彼は頭髪も失っている。 「こんな姿を見せれば……怖がらせるだけだ……」 「そうかな?」 士乃は滝井の傷を指でそっと撫でた。 「……子供の頃……私は父の愛人に誘拐され、殺されかけてこの傷を負わされた……。彼女は私さえいなければ、父が離婚すると思ったようだ。幸い私は命をとりとめ、愛人は――捕まる前に自殺した」 滝井の言葉は簡潔だった。それがかえって――滝井が受けたであろう深い痛みを士乃に伝えてくる。士乃は黙ったまま滝井の首を優しく抱き、頭の傷に頬を擦り寄せた。 「責任を感じた父は、傷痕を消すため手を尽くしてもくれたがこれが限界だった。父は私に同情し、甘やかし、欲しがったものは何でも与えてくれた……家は裕福だから、絵の勉強のために留学もさせてもらった。画壇で成功したのも、初めは人脈を持つ父の口添えがあったからだ。自分が十二分に恵まれているのは承知している。だが……」 小さく息を吐く。 「私があの手の絵を描くのは……君みたいな綺麗な男から何かを奪ってやりたいという衝動をたびたび感じるからなんだ…… 美しい青年の肉体を絵の中で思うがままに蹂躙する事で、自分の内から湧いてくる凶暴な気持ちをなだめている……そうやって、捌け口のために描いた絵は、残虐趣味を心の奥に隠し持つ人間にも響く物があるんだろう。だから彼らは、私の絵を買っていく……」 滝井は、士乃の肌に残る、昼間士乃自身がつけた細い傷に触れた。 「それ、本当は……もっと深く切りたかったんだ……切り開いたってよかった……」 傷をなぞる滝井の指先を目で追いながら、士乃は呟いた。 先生が……描きたいものを描くために、自分が見せられるものは全て見せてあげたい。だから、その指で――皮膚も、その下の組織も、引き裂いてくれてかまわない。そうしてもらえたら……先生の内側(なか)にある世界に空いてしまった穴を……少しでも埋める助けにならないだろうか―― 「……でもそんなことしたら先生が後で困るもんね……矢代さんも」 「ああ。困る」 「正岡さん怖がらせちゃった。俺がおかしくなったと思ったみたい」 「そうだろうな……彼には……理解できないことだ……」 士乃の傷を辿り終えた滝井の指は、そのままゆっくりと下におりて行き――下腹部の翳りに分け入って性器に触れた。 「……士乃のここには……興味が湧く……」 「そう――?」 「同性の……この部分を可愛いと思ったのは、お前の物が初めてだ……。相手が士乃なら、或いは――」 士乃は黙って、滝井の手の中にある自身を見下ろした。 「お前は私に……抱いて欲しいか?」 士乃は微笑んでかぶりを振った。 「俺はただ、先生が描きたい絵を描くために、この身体を好きに使ってもらいたいだけ。それ以外、なんにも望んでない」 「本当に?それだけでいいのか?」 士乃は頷くと、滝井の首に絡めていた腕を外し、皿の上にあった肉片が刺さったままのフォークを取り上げ、自分の口に運んだ。 「……私のだぞ」 そう呟いた滝井に士乃は、別の一片をフォークで刺し、食べさせた。滝井はそれを咀嚼しながら 「冷めてる」 と小さく言った。

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