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第23話
ある大安吉日の日――士乃は滝井とともに、都内のホテルで開かれた矢代の結婚式と、それに伴う披露宴に出席していた。
滝井は、アトリエにいる時と同じく顔を隠さないまま参列した――他人が怖がろうが嫌がろうが、なんだかもう、どうでもよくなってしまった、と言って。滝井の中で……何かが変化したらしかった――そして士乃は、そんな滝井と一緒にいるのが嬉しかった。
美しい花嫁は、素顔の滝井を見た時ごく当たり前に微笑んで挨拶した。傷痕のことは矢代に聞いていたのだろうが、例え知らされていなくとも、この人は同じように微笑んで滝井を迎えただろう――そんな風に士乃に感じさせる女性だった。
宴は滞りなく終わり、出席者は解散し始めた。滝井が友人らと立ち話をしている間、士乃は一人ぶらぶらと広いホテルの廊下を歩き回った。他にもいくつか披露宴が行われていて、そこここで正装の人々が談笑している。
と――向かい側からやって来る男性の姿に――士乃は目を吸い寄せられた。
それは……後藤だった。何年振りだろう――全く変わっていないその姿に、一瞬、時間が引き戻されたような錯覚を起こしてしまう――
彼は3歳位のピンクのドレスを着たかわいらしい女の子の手をひき、俯いてゆっくり歩いていたが、ふと顔を上げ――士乃に気付いてその場に立ち尽くした。
「初、見――?」
呆然と呟いた後藤を見上げ、少女が不思議そうに呼びかけた。
「パパ?」
士乃は――咄嗟に動揺を押し隠し――静かに二人に歩み寄って、その子に微笑みかけた。少女は笑い返したが、すぐはにかんで後藤の陰に隠れてしまった。
「……こんにちは。先生の――娘さん?かわいいね」
「あ。いや。あ、うん」
後藤は戸惑った様子で答えた。
「この子は……女房の連れ子なんだ。彼女とは幼馴染で、その……俺が……女性相手じゃ役に立たない事もわかってて……一緒になった……」
「そう……先生……色々あったんだ?」
「ああ」
後藤が、士乃を見つめたまま頷く。
「色々あった……色々あって、俺は、もう先生じゃない」
「えっ!?」
ショックを受けながら士乃は尋ねた。
「どうして?学校、辞めちゃったの?」
「ああ……今じゃ専業主夫だよ。言っとくが、お前との事がばれて辞めさせられたとかそんなんじゃない。この子の母親に口説かれたんだ……」
後藤は少女を見下ろして微笑みかけ、小さな手を握り直した。
「そうして俺は……この子の父親になって、忙しい母親の代わりに面倒を見てやりたくなった。それで教師を辞めたんだ……」
「そうだったんだ……今日が……結婚式?」
「いや。俺達、式は挙げてない。今日は女房の弟の結婚式で」
後藤は答えながら、士乃を見て目を細めた。
「大人っぽくなったな……背も伸びて……それに……相変わらず綺麗だ。そのスーツ、よく似合ってる」
「そうかな……こういうの、初めて着たんだけど」
スーツは滝井が選んでくれたものだった。
「ああ、すごくいいよ……。初見は――今はどうしてるんだ?」
士乃は視線を落とし、答えた。
「――大事な人と――一緒に住んでるよ。そこで仕事もさせてもらってる……」
「そうなのか……幸せか?」
「……うん」
顔を上げ、後藤を見て頷く。
「そうなのか……」
「うん」
「パパ……」
小さな声で少女が言った。
「あ、ごめんごめん、ママ待ってるから行こうな。そうだ、初見」
後藤が思い出したように付け加えた。
「岩内だがな、あいつ、学校辞めさせられた。今はどこにいるのかわからん」
「え?そうなの?」
「ああ。補導員だったくせに、見回りの最中、夜遊びしてた男子高校生に暴行したんだ。本人は指導のつもりで平手でちょっと叩いただけだと言ってたが、相手が、それだけじゃなく痴漢行為もされたと訴えた。証拠は無かったらしいが公衆トイレに連れ込んでたのが問題視されて解雇処分になった。もう教員として雇う所は無いだろ。バカな奴だよ」
「そう……」
士乃は、岩内に乱暴された時の事を思い出した。あの時は相手が士乃で、脅す材料があったから――岩内は思い通りにできたのだ。士乃以外の人間を同じように従わせようとしたって……上手くいくわけが無い。
「先生、元気でね」
士乃は言って二人に背を向けた。
「ああ……初見もな……」
「パパ、あのお兄ちゃん、だあれ?お友達?」
後ろで少女が尋ねているのが聞こえた。後藤が答える。
「うん、そう。昔の……お友達だよ……」
昔の友達……
小さな子供にそれ以外の言いようなんてないじゃないか。なのに……どうしてこんな……打ちのめされたみたいな気分になるんだろう。
士乃は足を早めて目に付いたトイレに駆け込むと、誰もいなかったそこでしゃがみこんで両手で顔を覆った。涙がこぼれてきて嗚咽が漏れる。そうやって泣きながら、俺、なんで泣いてるのかな、と考えた。
以前会うのを止めた時には――泣いたりなんかしなかった。とっくにあきらめて別れた人が、結婚しようがなにしようが、今さら俺にはなんの関係もないはず――
そこへ入り口のドアが開く音がして誰かが入ってきたので、士乃は個室へ隠れようと慌てて立ち上がった。
「士乃。ここにいたのか。探したぞ……どうした?泣いてるじゃないか。何があった」
滝井だった。
「うん――ちょっと――」
士乃は手の甲で涙を拭い、洗面台にもたれながら答えた。
「一番初めに好きになった人に……今そこで……偶然会ったんだ」
笑顔を作ろうとしたのだがうまくいかなかった。かえって涙が出てしまい、滝井の顔が滲んで見える。
「俺、あの人を……別れた後も、ずっと身体張って庇ってたつもりでいた……でも、そんなのただの俺の自己満足で――無意味だったって、たった今、思い知らされた。あの人……結婚して、可愛い子供がいるんだ。奥さんの連れ子だそうだけど……」
溢れた涙が雫を作ってぽとりと落ちた。滝井が側に来て、士乃を抱き寄せる。士乃は滝井の胸に顔を埋めて訴えた。
「奥さん、あの人が女の人とは寝られないの知ってて結婚したんだって。でもそんなの、夫婦って言えんの?」
「それは……当人同士の問題だな」
「あの人も、子供の父親になってあげたかったんだって……教師の仕事辞めてまで。今は専業主夫だよ、なんて言って幸せそうに笑ってた――お人好しすぎなんだよ――」
「優しい奴なんだな」
滝井は静かに言いながら、抱いている士乃の髪を撫でた。
「そうだよ。優しいんだ……優しい人だから……俺とのことなんか……きっとただの同情だったんだ……そう思って……悲しくなったんだ……」
「それは違う。同情なんかじゃなかったはずだ」
士乃は顔を上げた。
「違うかな……?」
「ああ。士乃には、誰だって惚れる。そいつだって本気で惚れてたさ」
「そうかなあ……」
「そうさ」
「……あの人、俺のこと、相変わらず綺麗だなって言った。先生が買ってくれたこのスーツ……よく似合うって……」
「ほら見ろ。そいつきっと、惜しいことしたって今頃悔しがって泣いてるぞ」
「そうかな……だったらいいな……先生ありがと。元気出てきた」
身体を離そうとした士乃を、滝井は抱いている腕に力を込めて引き止めた。
「先生――?」
「もう少し、慰めさせろ。士乃は立ち直るのが早すぎる」
「ええ……?」
滝井は自分のポケットチーフを抜き取ると、腕の中で滝井を見上げている士乃の、頬に残る涙の跡を優しく拭ってくれた。
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