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 アッ、と思った時にはすでに手からツルッと落ちていて、一秒後に割れる覚悟をした、直後だった。 「……どうぞ。怪我はありませんか?」  おれの手から滑り落ちたマグカップを見事にキャッチした肉体派東洋人(おそらく中国系)は、さらっとした口調でとくになんでもない風にそれを差し出した。 「わぁ。ありがとう。すごいね、いまの忍術?」 「残念ながら私の国に忍法使いはいません。たまたま、手を伸ばしたら間に合った、それだけですよ。……おつかれのようですが、ききちんと寝ていますか?」 「ん? んー。だいじょうぶ、三十時間まではたぶんまだ死なない領域」 「……息をしているという状態は、生活できているとイコールではありませんが」 「うはは。正論だねぇまったくシャオフーの言う通りだ。でもねぇーさすがに主力が二人も欠けると埋め合わせがきっついんだよね。おれとミレーヌがしゃかりきに頑張ってシンディがミスをしなけりゃどうにかいける? どう? 無理? でも神様どうにかしてくれるかも! くらいの進行なのよ」 「……それは……、いえ、差し出がましい事を言いました。どうぞ忘れてください」 「いやいや。心配はね、普通に嬉しいよ、ありがとう。マグカップもありがとう、新しいマグカップを買いに出かける時間が省けたからね」  軽く頭を下げる生真面目な人にひらひらと手を振りふいと顔を逸らし煙草吸ってくるねと言い置いて、バックバクに煩い心臓かかえながら自室に駆け込んでマグカップ持ったまま蹲み込んでしまった、いや、だってさぁ! 「な、にあれかっこよ……」  いやいや。カッコいい。カッコいいよさすがにあれは。怪我はありませんか? だって。いやぁカッコいいでしょうよ、アレは。おれの語彙力が十歳になってしまうのも仕方ない。  と、自室入り口でうわーうわーしていたら唐突に開いたドアにケツを叩かれた。痛い。 「うっわ、びっくりしたサイラスじゃん……」  なんだか妙に失礼な言い草だ。  失礼な言葉を失礼なイントネーションでぶっぱなした失礼な小娘は、今日も元気にポニーテールが似合っている。牧場とかで馬の世話してそうな見た目なのに、なぜかシンディはおれの同僚だった。 「ミレーヌにぶつかっちゃった!? と思ってヒヤッとしちゃったぁー」 「ちょっと、おれならケツぶったたいていいっての? てかここじつはおれの自室なのよシンディ」 「知ってるよぉ。でもいまはすっかりみんなのシャワールーム兼仮眠室じゃん」 「まったくおれがゲイだからって、きみたちは気を許しすぎなんだよ」  やれやれと立ち上がると、資料を抱えたシンディは若い足取りでたったかとおれの横をすり抜けて、勝手にベッド横の本棚に向かう。  いやー別にいいけど、本当におれの家っていうか第二の書庫(しかも寝れるしシャワーもある!)みたいな扱いね、と思う。別にいいけど。 「サイラス、よくそれいうよねーゲイだからってやつ。サイラスがゲイじゃなくたって、あたしは友達になったと思うけどなぁ」 「……シンディ、ドーナツあるけど食べる?」 「あはは。サイラスほんとに人間に甘いよねぇ!」  不本意ながらよく言われる。  背が高くて表情がよくわからない、だから初見は異常にとっつきにくいらしい。たらたらと同じテンションで言葉を垂れ流すのもよくないんだろうなぁと思う。直そうとは思わないけれど。  どうみても人間嫌い。それなのに中身はただのちょろい男だ。自覚はあるが、この性格もたぶんこの先変わらないし、同僚たちが愛すべきサイラス! と手を叩いて喜んでくれるのでまぁいいかなーと思う。  普通に生活している分には、おれが人間好きだろうがすぐに調子に乗っちゃう性格だろうが、特別困ることはない。  そう、普通に、顔も見飽きた同僚たちに囲まれながら、毎日ひたすら仕事に追われている限りは。 「ドーナツあるなら後でケントに持ってっていい? 甘いの食べたいけどこの辺ドーナツ屋ないって煩かったからさー。シャオフーも食べるかなぁ」 「彼のごはんタイムは朝と昼のみだから今晩は何差し出しても『お気遣いはありがたいですが結構です』って言われるだけよ。たぶんベーグルの方が好きでホットドッグに玉ねぎマシが好み」 「……ええ……シャオフーオタクじゃんちょっと引く……。そんなに好きなのになんで本人にはソークール装ってるの……?」 「いや無理。あれ以上近づいたらね、完全にまずい」 「別に、好きになっちゃえばいいじゃんー」 「あのねぇシンディ、好きになんのは簡単だけど、大人はそのあとが大変なのー」  そもそも、どう見ても彼はゲイじゃない。  なんていうかなぁ……ゲイはこう、ゲイってわかっちゃう何かがある。これは人種とか関係ない。おれの前の彼氏は東洋人だったけど、一目でわかるゲイだった。  シャオフーの身体はこう、良い感じに筋肉質で大変好ましいけれど、彼は間違いなくストレートだしきみの筋肉素敵だねなんて口が裂けても言えないだろう。おれは友達にはゲイをネタにできるけど、実際に気持ち悪いと言われたら結構悲しい。  叶わぬ恋愛は望むべきじゃない。  というか、正直恋愛なんかにうつつを抜かしている場合でもない。先ほどシャオフーに言ったことは本当で、ボスは置いといてマッドとトリクシーの穴はそれなりにでかい。  我がウィズメディア社は自転車操業だ。一度でも雑誌の発行を止めてしまえば、そのままなし崩しに会社もつぶれてしまうだろう。おれはまあ、フリーで食いつないでいくのもありだよねーと思わなくもないけど、シンディとミレーヌの(ついでにダニエルの)職場を奪うつもりはない。  とりあえず全力で頑張んないとやばい。まじで。ほんとに。その為にはやっぱり、イケメンのケツを追いかけまわしている暇なんかないわけよ、と、頭ではわかっているのだけれど。 「でもねぇ、見ちゃうんだよねぇー……」 「近寄りたくないなら徹底的に無視! したらいいのにダメなの?」 「それができれば苦労はしないよ。シンディ、好きな俳優は誰?」 「ジェイソン・モモア」 「思いの外しぶいね……ああ、いやまあ、旬っちゃ旬かな。まあいいや、そのモモアさんが全裸で徘徊してたらどう?」 「見ちゃう。それはみんな見るでしょ? え、サイラスにはシャオフーが全裸に見えてるの?」 「いやぁ、そういうことじゃなくて。全裸はぜひ拝みたいけどさ」 「口説いたらいいじゃん!」 「だめだめ。おれの理性が邪魔をすんの。実はおれってば割合理性的な男なのよ」 「そんなのみんな知ってるよーだからボスの奥さんともめたんじゃん!」 「うっわ、古傷ぐいぐい抉ってくるねぇシンディこわぁい」  そういえばそんな事件もあった。おれの人生の三つの転機にはカウントしなかったけど、まあまあ面倒で思い出したくない話だ。  思い出したくないので簡潔に要点だけ言うとまあ、ボスの奥さんがおれに一方的に入れあげて、結局ボスは奥さんと離婚した。いまいち、ボスに頭が上がらないのも、彼らの結婚生活をぶち壊してしまった負い目があるから、かもしれない。  ていうかおれ何もしてないんだけど。  勝手に熱を上げられて、忙しくて適当にあしらってたら急に襲われて、本気で抵抗したら障害沙汰になっちゃって(ちなみに怪我した方はおれだ)、おれが誘っただの襲っただの言いたい放題されてもめにもめて、結局無実は証明されたけどもうボスの家は夫婦円満とは言えなくなった。 「でもさぁ、サイラス。サイラスはさーゲイじゃなくっても奥さんと寝なったと思うよ。だからあたし、やっぱりサイラスがゲイとか関係なく友達になったと思う」 「……シンディはいい子だねぇ。ドーナツ食べる?」 「真面目な話だよードーナツは食べるけど。……あたしが、サイラスのこと好きなようにさぁ、シャオフーにもケントにも、サイラスのこと好きになってほしいなぁって思うんだよね。それにサイラスは真面目でかわいいじゃん?」 「じゃん、って言われても。自分かわいいって自覚ある三十三歳男じゃないもんで」 「かわいいの。理性的で、ちょっとだめで、そこがいいんだよ。だから、自信もって口説いちゃえばいいのにって思うよー。たぶんシャオフー、偏見とかない人だよ。だって彼もすごくいいひとだもん」 「まー、彼がね、百パーセント善人なのは、わかるけどねぇ」  何と言っても落ちそうなマグカップをさらっとキャッチして、お怪我はないですか? なんて声を掛けちゃうイケメンだ。ボディガードだからとか関係なく、あれはイケメン仕草だと思う。  ついつい確認してしまった左手の薬指には、結婚の印はない。ケントは指輪してたけど。でも仕事中は外してるって人もいるし、結婚してなくても恋人くらいはいるでしょうシャオフーは良い男だし。そんな風に思ってしり込みしているのは、完全に己がビビっちゃってるからだ。  あんまり、恋愛がうまくいく質じゃない。  仕事につきっきりなのも悪いんだけど、見た目が軟派なわりに中身は細かいところがよくない、らしい。うーんそんなこと言われても。  別に掃除が好きとかそういうわけじゃないし、そこまで自分が細かい性格だとは思わない。煙草が嫌いって言われたらそこはどうしようもないけど。……やっぱりおれは、恋愛ってやつには向いていないんだ、と結論付けるしかない。  向いてないものに、わざわざ向かっていくのはマゾ趣味か暇人くらいなもんだろうよ。生憎とおれはどちらでもない……と自分では思っているもんで。 「あたしは応援してるからね。ミレーヌも面倒くさいとかアイツまじ恋愛初心者かようざいとか言ってるけど、本当は応援してんだよ。ミレーヌ、サイラスのファンだからね」 「えええ……風当たりの強い自称ファンだなぁ優しくしてよ。あ、ドーナツ冷蔵庫の中ね。食べたい人に配っていいよ、あとミレーヌに買い出し行くなら一緒に行くから時間決まったら教えてって言っといて」 「おっけーボス」 「仮ね。仮だよ、ボスには向いてないからねおれは」 「えーなんでー。今も昔も結局サイラスが回してるじゃん。ボスみたいなもんだし、独立したらあたしはミレーヌと一緒についてくよー」 「いやそこまでうちのボスをこけにはできないよ……おれ、事務系はからっきしだしお金のことは、あの人の方が強いからなぁ。なんだかんだでまかせっきりだよその辺は。あんまり喧嘩売らないようにね、あの人も怪我しちゃって大変なんだしさ」 「サイラス、ほんとに全人類に生温いよねー」 「褒めてる?」 「あたしだけ甘やかされたーいって思ってるだけー。ドーナツ貰ってくね!」  爽やかに笑って、シンディは部屋を飛び出す。残されたのは若い女子に振り回されただけの三十三歳だ。  なんていうかさ……おれってこのまま一人で仕事にまみれて生きてくのかなーなんて、うっかり、だらだらと考えてしまうときもある。  忙しさって奴は、こういう思考をぶった切ってしまうから好きだ。ああしていれば、こうしていればという無駄な後悔は、結局一銭の得にもならないのだもの。……やっぱりおれは、恋愛なんてものに心受け渡すより、仕事してた方が良い。うん。そうだそうだ。  だからねシンディ、やっぱりシャオフーのことは見ないふりをするに限るんだよ。  ひとりになった部屋で、煙草に火をつけて吸い込む。  満たされて、どうにか思考を真っ白にする。だらだらと考え込むのは疲れる。疲れることはしたくない。仕事してるだけで、十分疲れているんだから。 「……仕事しよー」  考えるのは嫌だ、面倒くさい。だからおれは、いつも通りに仕事に逃げるのだ。

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