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 本当に、ちょっとした雑談のつもりだったのだ。 「あの……お二方のお仕事を邪魔するつもりはなかったのですが……」  控えめに声をかけてみるものの、真剣な面持ちの彼女たちの耳に届いているのかわからない。  明日に休暇を控えた私は、ケントの娘の誕生日に贈るプレゼントを思案し始めた。彼の娘は、たしか来月六歳になる。  ウィズメディア社の警護は残すところ一週間だ。次の仕事は、セレブに付きっ切りの私人警護になるかもしれない。そうなると、買い物に出かける事も難しくなる。  今のうちに目星をつけておこうかな。と、そう思っただけだったし、ジャンルは違えど出版社の人間なのだから、私よりは文学に強いに違いないと勝手に期待しただけだった。  まさか、こんなにも本気になってしま……もらえるとは。  小さな子供に、魔法使いが活躍する絵本か童話を贈りたい。なにかおすすめはあるだろうか。  この要望に、遅い夕食中だった筈のミレーヌとシンディは眼の色を変えて席を立った。  二人が向かったのは、二階――サイラス・シモンズの自室だった。  私が入ってもいいものだろうか。彼のプライベートな空間は、警護対象には入っていない。玄関先で少々思案したものの、早く入ってとミレーヌに急かされ、仕方なく足を踏み入れる。  なんというか……紙と本と資料の中に寝床がある、といった風な部屋だ。乱雑なわりに生活感がなく、あの人の部屋らしいと思ってしまう。  サイラス・シモンズは生活感がない。  彼は一見俗世の塊のような顔をしているし、本人もそう装っている。  けれど実際は仕事に対して真面目すぎて、ほとんどそれ以外のイメージがないし、事実仕事以外のことに関しては無頓着なのだろうと思わせた。  勝手知ったる様子でずかずかと部屋に入る女性二人に手招きされ、仕方なく私も本棚に近寄る。 「あった! やっぱりハリーポッターでしょ!」  シンディに『はい』と差し出され思わず両手で受け取る。その分厚い本の上に、今度はミレーヌが無造作に絵本を積み重ねた。 「そんなん六歳には厚すぎよ、無茶言わないの。やっぱり私は魔法使いのリーキーさんだと思うのよね」 「えーそれミレーヌが好きなだけじゃん~地味だよぉ。子供向けならマジックツリーハウスは?」 「魔法使い、か……?」 「じゃあやっぱ童話。アリスって魔法使いいた?」 「いないでしょ。ウサギと帽子屋とネズミとあたまおかしい動物しかいない。あーでもオズの魔法使い好きならアリスもいいのかしらねーどうなんだろう」 「でもディズニーランドで会えるキャラはアニメで見ちゃうよねー」 「それもそうか……うーん、リンダギュル姫と魔法使い……」 「なんでちょっとマイナーなの選ぼうとすんのミレーヌ」 「誰も知らないような本をお気に入りにすんのが熱いんでしょうが」 「オタクの考え方だよぉ……」  高速で喋りながらも、二人はどんどんと私の腕の中に本を積み重ねていく。重い。いくぶんか人よりは丈夫だという自覚はあるが、容赦ない二人の攻撃で、ついに目のまえが隠れそうだ。  重い、というか、このままでは崩してしまう。 「あの! お気持ちは大変うれしいのですが、もうこの辺で……!」 「え。そう? まだあるわよサイラスの部屋、本だけは無駄にあるから。しかもあいつ何故かSFとファンタジーが好きなのよね、まじ無駄にある」 「……これはすべて、シモンズさんの所有物ですか?」 「ま、私たちが持ち込んだ私物も混ざってるけどね。なんかもうこの部屋のものは、どれが誰のものとかわかんなくなっちゃってるから」 「仲がいいですね、本当に」 「そんな事言ったらあなたとミスター・テラヤマも仲良しじゃないの。気の合う同僚って、なかなかめぐり逢えないから大切にしちゃうのよ。わかるでしょ?」 「……確かに、そう思います」  最後の一冊を本のタワーの上に乗せ、ミレーヌは満足そうに腕を組む。私は慎重に本をベッドの上に乗せ――そこしかスペースがなかった――、二人に丁寧に礼をした。 「ありがとうございます。ぜひ参考にさせていただきます」 「うん。他に思い出したらまた言うわ」 「……お二人とも、本がお好きなんですね」 「本が好きっていうか、私は文字が好き。そうでもなきゃ、もっと簡単に金になる仕事をするに決まってる。そのうえこのクソみたいな会社にしがみついてんのは、サイラス・シモンズが居たからよ。麗孝、あいつの文章読んだことある? ないわね? おっけーならこれも追加」 「え、あの、」 「サイラスは見た目よりも馬鹿だからね、ちょっと付き合いにくいところが目立っちゃうかもしれないけど、理解しちゃえばただの馬鹿よ。これからオフなんでしょ? 読んでみたら? あいつの文章は、頭を殴るよ」  そう言われて渡されてしまえば、いりませんと突き返すわけにもいかない。自分の要件だけ満たしておきながら後は知りません結構です、とは言えず、彼女たちが居なくなってしまった部屋で、とりあえずベッドに腰を下ろした。  当たり前のように落ち着かない。  どんな環境でも眠れることだけが取り柄の私だというのに、妙にそわそわとしてしまう。  主が居ればまだマシなのだろうが……いや、彼に見つめられるあの感覚を思いだすと、やはり、落ち着かないような気持ちになるのでダメだった。  サイラス・シモンズは雑誌ライターだ。それ以上の知識を、じつのところ私は持ち合わせていない。  なんとなく仕事をしている様子を眺めていても、忙しそうだという事と、休息が足りなさそうだという事くらいしかわからない。彼らの仕事はほとんどパソコンひとつで事足りるらしく、遠目からは何をしているのかわからないのだ。  彼の文章は頭を殴る。ミレーヌの言葉が、少し、好奇心を刺激する。  言われたから仕方なく、ではなく、私は自発的にその雑誌――ウィズメディア社の看板雑誌であるNESSAを開いた。  特集はセレブと薬物。  細かい文章を追いかけながら、私はミレーヌの言葉を理解した。センセーショナルな見出しに対し、緻密な文章は思いの外真摯で、そして知識の多さを伺わせる。ほとんど本を読まない私が、偉そうに評すことは避けたい。ただ、確かにああ、うん、殴られる、という意味は、わかる。  サイラス・シモンズの記事には信念がある、ような気がする。  彼の言いたいことがストレートに理解できる。だから読みやすいし、没頭してしまう。時折読む新聞よりも、随分と面白い読み物だ。無論、そう思われるように書いているのだろうが……気が付けば私は、彼の文章を黙々と読みふけっていた。  ふ、と現実に引き戻されたのは、階段を登る足音がしたからだ。  職業柄、音には敏感になる。慌てて顔を上げた時、扉を開けてこちらをぼけっと見つめるサイラス・シモンズとしっかり目が合ってしまった。……しまった、腰を浮かす暇すらなかった。  雑誌を閉じて立ち上がろうとしたものの、彼が口を開く方が早い。 「っあー。いいよ、そこにいて。ていうかあれ、きみ、帰ったんじゃなかったんだね、なんか一日休暇だからって代わりの人来てたから、もう家に帰っちゃったもんだと……」 「ええ、あの、帰るつもりだったのですが、ミレーヌとシンディに少し助言をいただいていまして」 「助言……うーん? ファンタジー小説入門するの?」  私の横に積まれている大量の『魔法使いの本』をちらりと一瞥し、眠そうな声で頭をかく。  だるそうな足取りでベッドに近寄った彼は、いつもよりも数倍眠そうな顔で小首をかしげ、まあいいやと言ってから私の隣に横になった。  驚いた。  驚きすぎておかしな声が出そうになった。いや、彼のベッドなのだから、彼が横になることになんの問題もないのだが……サイラスから近寄ってくることがほとんどなかったので。  触れあう程に近くに、彼がいる。横になって、積んである本に手を伸ばし、題名を指でなぞって少し笑う。私は、身動きができない。……笑っているところを見たのは、初めてかもしれない。 「ファンタジー初心者にハリーポッターは厚くない……? 大人が読んで面白いのは随分と後だし……夢中になれるけどねぇ」 「ああ、いやこれは、友人の子供に贈る、プレゼントの参考に、」 「あー……うん、なるほど。それはいいね、本を贈るのは最高。最高だよ。どんなものだっていいけど、おれは本が好きだしね。でも、きみが読んでたのはうちのクズみたいな雑誌だ。プレゼントの参考にはならなくない?」 「クズではありません。あなたの文章は真摯で、とても気持ちがいいです」 「………………」 「あの、私は何かおかしなことを言いましたか?」 「……言って、ない、けど、なんかこう、ストレートに褒められることってないから、えーと……うわーってなってるの」  少しだけシーツに顔を埋めながら、ありがとう、と呟く。  私の耳に、先ほどのミレーヌの言葉が蘇る。理解しちゃえばただの馬鹿、と彼女は言った。馬鹿だとは思わないが、もしかしたら、この人は私が思っているよりも、もっとずっとわかりやすい人なのかもしれない。  なぜか私まで一緒に照れてしまいそうになる。不思議な感覚に戸惑いながら、私は彼の時間を邪魔している事にやっと気が付いた。 「申し訳ありません、これからお休みでしょう。私はお暇します。こちらの本はお借りしてもいいでしょうか、ぜひ目を通してから検討を――」 「だめ」 「……貸出はできない、ですか」 「本は好きに持って行ってもいいよ。でも、きみが帰るのはね、だめ」 「………………はい?」 「あのね、シャオフー、おれってばいますごく眠いのよ。そんでね、三十三歳が眠いときはだいたい人恋しくて、理性とかバーンってしちゃってて、誰かの声を聞いていたいなーとか思っちゃうんだよつまりそこにいてほしい。……だめ?」  先ほど自分で『帰るな』と言った口で、今度は私に許しを乞う。首を少し、傾げる仕草を止めてほしい。ぐらり、と私の中で、何かが傾くような不可解な気持ちが沸き上がる。 「あー……いやでも、きみだってオフで眠いか眠いよなぁいまのちょっとどころか横暴だったな……訂正してお詫びしてなかったことに……」 「いえ、私の存在が邪魔でないのならば、個人的には特に問題はありません。帰宅しても洗濯をするくらいしか予定はありませんし、先ほど仮眠を取ったばかりなので眠くはありません」 「どこでもスパッと寝れちゃうスキル、おれも欲しいなぁ……」 「というか、私は、あなたに歓迎されていないものだと」 「ぎゃくぎゃく。あのね、まあ確かに意図的に避けてたけどさ、それって実のところきみに不用意に近づいちゃうとぐーんと引き寄せられちゃってバーンと落ちてぎゃーんって取り返しがつかなくなりそうだったからであって」 「…………私にわかる言語で、もう一度お願いします」 「好きになっちゃったら困るから避けてたごめん」 「………………」  頭の片隅で、ケントが『そらみろ』と言っている。  好みだから見てしまう。あの不自然な視線の理由が、そんな単純なものだったなんて。  しかもごめんと謝られてしまえば、怒る気も失せる。何より私はこの人が少しかわいい、と思い始めている。  なんて不器用なんだろう。私に言われたくはないだろうが、サイラス・シモンズは不器用すぎる。  その不器用さが、私の中の何かを、ぐいぐいと刺激する。 「おれ黒髪性癖なんだよね。アジア人もつい見ちゃうから好きなんだろうなぁ。腕とか格好いいし、瞳もキレイでいいよね、目が離せなくなって困る。紳士だしね。おれが客だからかもしれないけど、うーんいや、シャオフーはたぶん、オフの日も紳士だろうなぁ。マグカップ助けてくれる紳士だものなぁ」 「あ、れは……本当に、たまたま……あの、あなた、そんなキャラでしたか。なんだか随分と、今までと違いませんか」 「だって眠いんだよ。おれだめ、眠いと理性がぶっとんでどろどろに溶けちゃう。何日寝てないのかな仮眠は熟睡とは違うだろうから、うーんほんとまともに寝てないんだろうなぁ。いい加減一回休めってね、ミレーヌにケツ叩かれちゃった、うはは。はー……あーだめ、だめ、よくないこと考えそうー眠い時最悪だね、だから寝るの嫌いだよ。ねえちょっとシャオフー、なんか喋って」 「なにか、とは……」 「なんでもいい。できればきみの話がいいけど、この際言葉ならなんでも大歓迎。きみは声もセクシーで低くて気持ちいいよなぁ。東の国の人の声は、なんでこんなに気持ちよく低いんだろう」  もしかしたらもう、半分くらい寝ているのかもしれない。よく見れば瞼が半分落ちている。寝言のようなものなのだ、たぶん。きっと、起きたら覚えていないのだろうし、いつも通り適度な距離で避けられるに違いない。  ……そう思わなければ、羞恥で動けなくなりそうだ。 「話をしてよ、シャオフー。疲れているときは、誰かの声が心地いいんだ」 「……そう、言われましても。私の人生はあまりにも味気ないので、特に、お話することも」 「じゃあいま食べたいものとか。やりたい事とか。気になっている事とか」  しぶる私に対し、眠い男はインタビュー方式に切り替えたらしい。そんな事を言われてもやはり、私の言葉など面白みもないと思うのだが……。 「食べたいもの……は、ホットドッグですかね。このところパサついたパストラミサンドばかりだったので」 「あー店が悪いねー表の通りの店よりね、三本向こうの角の店がおいしいよ。接客はクソだけど悪気はないはず」 「有用な情報です、後日ケントに伝えます。やりたい事は、あまりぱっと思い浮かびません。とりあえずやらなければいけない事は、友人の娘のために本屋に行く事。気になっている事は……そうですね、NESSAの語源、ですかね」 「んー……そんなことでよけりゃ、おれが答えてあげるけど」 「何か、由来のある言葉なんですか?」 「ていうかモデルはあるよ。ええと、オズの魔法使いって知ってる?」 「……案山子とライオンとロボットと偉大な魔法使い?」 「そうそう。なんだ、知ってるんじゃないの。じゃあ話は早いよ、ドロシーが家ごと吹っ飛ばされて、どーんと着地した時に家の下敷きになって死んじゃった悪い魔女の名前がネッサローズ。語源はそこから。まあこれ、原典じゃなくってミュージカル版の名前だけどね」  ……そんなとんでもない冒頭なのか、と少し驚く。  少女が好んで見るというのだから、もう少し甘いおとぎ話だと思っていた。思いの外残虐な出だしである。  実は話の内容はほとんど知らない事を告白すると、眠そうなサイラスは眠そうに笑う。 「まーあれ、中身わりと電波だからねぇ。いきなり悪い魔女が死んで、そこの住人たちがやったーこれで奴隷から解放だー! って騒ぎだすんだものなー」 「どうして、東の魔女の名前をモチーフに?」 「うん? うーん、なんか……東の魔女って、物語に出てこないんだよ」  ゆっくりと、平坦な声でサイラスは語る。  彼は私の声を低く気持ちいい、と評したが、彼の声こそなだらかで心地よい。 「もう最初に死んじゃって、そのあとも生き返ったりしない。だからドロシーはね、東の魔女に会わない。ただ彼女は他の登場人物が『あいつは悪い魔女だった』って言うから、それを信じるんだよね。読者も信じる。でもさ、他人が悪いと言ったからあいつは悪い人だって思い込むの、すごく怖くない? っておれ、思っちゃった。本人に会ってもないし、喋ってもいないのに」 「でも、実際に悪い魔女だったんですよね?」 「うん、まあ、きっと悪い魔女なんだ。それはきっとそう。ただ、ドロシーには自分の目で悪い魔女なのか良い魔女なのか、判断してほしいなぁって思ったんだよね。だからネッサローズの名前を取ってNESSA。真実は自分の目で確かめてから考えたい、って気持ちの名前。……って格好よく理由つけたのは実は後で、元々ボスが立ち上げた会社がウィザードメディアだったからなんだけどねー」 「ああ……WithではなくWizなのは、誤字ではないんですね」 「最初は誤字だったのかもよ。さすがに立ち上げたときはおれ居なかったからなぁー言葉なんてもの、後からいくらでも言い訳できるから好きだね」  とろり、とサイラスの瞼が落ちかける。相当眠いのだろう。彼の働きぶりを見ていれば、睡眠不足の話がただの自慢ではないことは明白だ。 「眠いのならば寝てください。私は本をお借りしてお暇します」 「えー……眠いけど、いやだよ、ねぇシャオフー、人間はねぇ、ほら、一度上げた生活水準は下げられない、って言うじゃない?」 「はあ。まあ、そう聞きます」 「だからおれも一度近寄っちゃったらもう離れられないの。わかる?」 「すいません全体的に何をおっしゃっているのかわかりません」 「きみが帰っちゃうのは嫌って話」 「……子守歌でも歌えばいいですか?」 「おーけー、きみの歌に勝てばきみは降参して今日はここで寝てくれるってことだね?」 「なんの勝負ですかそれは。勝手に私を景品にしないでください。本当に心配しているんです、サイラス。誰かと一緒がいい、というのなら私はここに居ますから」 「ほんと? わあ、脅迫してみるもんだねぇ」 「……脅迫している自覚はあったんですね」 「眠いからね、眠いときはね、いつもはやらないことまでできちゃうよね。ふふふ。いやぁ、今日はいい日だなぁ……なんか入稿目途立ったし、冷蔵庫の下からドル札見つけたし、おまけにシャオフーはおれに優しい」 「私は……。私は、特別あなたに優しくしている自覚はありませんよ。強いて言うなら普通です」 「それがいいんじゃない。それがいいんだよ、シャオフー。気持ち悪いとか、迷惑だとか、きみは言わない。その普通が、おれはね、跳ね上がって踊れちゃうくらいに嬉しいんだよ」 「………………」  言われてみれば、ほとんど告白をされているような状況だというのに、私は嫌悪感を抱かなかった。というより、避けられていた理由があまりにも予想外だったせいで、びっくりしすぎてその他の事に頭が回っていない。  好きになるかもしれないから、近づきたくない。  そう言ってとろりと笑う睡眠間際のサイラスは、まるで口説くようにここに居てと連呼する。これは、どういう態度を取ればいいのだろうか。正直、男性に告白された経験がないので、よくわからない。  ただ、嫌悪感はない。これだけは本当だ。 「……とりあえず、眠い時のあなたは水あめのように甘い人だということは理解しました。寝てください。あなたが望むのでしたら、私はここに居ます」  私の声に安心したのか、体力の限界だったのか、サイラスはすぐに目を閉じて寝息を立て始めた。  ベッドの上は私が置いた本や元々散乱していた書類やファイルで溢れかえっている。乱雑な紙類を適当に片づけ、持って帰るつもりだった着替えの入ったバッグから水を取り出し、ひとくち飲む。  ふー、と息を吐いてから、ようやく彼の甘い言葉が脳にしみこむようにじわじわと浸透してきて、今更ながら頬が熱くなるような感覚に見舞われた。  私は口説かれたのだろうか。果たしてこれから口説かれるのだろうか。  身辺警護をしていると、時折本気で口説かれることもある。生活を共にし、危険を共に乗り越えるボディガードは、どうしても心を許しやすい対象なのだろう。  ただ、我が社に依頼してくる個人は大概金持ちであるため、口説かれると言ってもストレートにベッドに誘われることが多い。勿論断っているが……好きになったら困るだとか、きみの声は気持ちいいだとか、そんな事を甘ったるく呟く男は、初めてなのだ。 「…………修行が足りない」  いつまでも甘い男のなだらかな声を繰り返し思い浮かべてしまう。よくない。これはよくないぞ、と思い、私はぐるぐるとした煩悩を追い払うべく、とりあえず筋力トレーニングを行うことにした。  軽く汗をかけば、気分もすっきりするはずだ。  その一縷の望みにかけ、甘い男の声をどうにか、頭の外に追い払う努力を始めた。

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