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六月末になり、悠介の学校は夏服になった。サラリーマンはクールビズが始まる。
夏真っ盛りほどではないが、皮膚に汗がにじむ程度の暑さの中、ノーネクタイに半袖シャツ姿の透がいつものようにベンチに腰かけていた。薄着になると、改めてその線の細さが目立つ。本来ふっくらしている部位であるはずの二の腕など骨に皮がついただけではないかというほど細いし、ちまりと丸められた背中はシャツの上からでも分かるくらい骨が浮き出ている。
「おはよ、透さん」
「あ、悠介くん。今朝は早いね」
初夏の眩しい朝日にも負けない輝く笑顔を向けられて、悠介はウッと胸を押さえる。だがすぐに異変に気づき、透をじっと観察する。ぼんやりとした瞳、痩せた体、以外に透を象徴するものが、その手にない。かわりに握られているのは、果肉の入ったゼリー飲料。
「あ、れ? パンは?」
思わず聞けば、透はそれはそれは分かりやすいリアクションをした。肩をビクリと強張らせ、ああ、とうめいて苦笑を浮かべ、すいーっと目を泳がせた。社会人にもなって、こんなに分かりやすくて大丈夫だろうか。はあ、と深くため息をついて、透の体を挟み込むようにベンチの背もたれに手をかける。
「と、お、る、さん?」
「いやあ、あのね、ほら、暑くなってきたじゃない? 最近さ……」
「それで食欲落ちてパン食べられないとか言います?」
「!」
ああ、的中だ。数少ないエネルギー源を断って、そんな蓄えのない体でどう生きていくつもりなのだろう。悠介はわざとらしく呆れていますという顔をすると、透の分の弁当が入った手提げ袋から、可愛らしいギンガムチェックの紙包みを取り出した。
「まあ、ある意味タイミングが良かったというべきか」
透は頭に疑問符を浮かべながらも両手で受け取る。いちいち挙動が小動物じみていて庇護欲をそそる。
「弁当のおまけ。あげる」
「おまけ?」
「できれば今あけて」
言われたままに、細すぎる指がガサガサと袋をまさぐる。中から出てきたのは、ひとつひとつ個包装されたクッキー。いかにも手作りですといった感じの不揃い感が、逆にいい味を出している――と自分では思っている。味は、洋次に毒見させたので間違いはない。はずだ。
「クッ、キー? 随分厚いけど。まさか作ったの?」
「まさか作りました。お菓子は初めてなのでお気に召すか分かりませんが、その……」
今食べてほしい、と絞り出すと、カッと頬が熱くなった。自分の作ったものを透が食べているところが見たい、その一心でクッキーまで焼いてしまった。迷走するにもほどがある。
そんな意図に気づくはずもなく、透は「えっいいの」と顔を輝かせている。騙し討ちのようになってしまって若干の罪悪感がわくが、致し方ない。
透の細く白い、女性的な指が、百均の安っぽい包みを丁寧に剥がしていく。直径五センチほどの薄茶の物体をつまみ上げ、一旦しげしげと眺める。そして赤みの強い小ぶりな唇をうっすら開くと、真ん中にさくりと歯を立てた。白い歯は柔らかい生地を難なくふたつに割るが、結局ふたつとも口に放り込まれる。頬が収縮するたびに控えめな咀嚼音が聞こえてくる。程なくして白い喉がコクリと上下に動く。口の端にガナッシュの欠片をつけたまま、透はぱっと顔を綻ばせた。
「うわあ、美味しいっ」
その瞬間、悠介の視界から透以外のものが消えた。バス停も、その向こうの街並みも、何もかもが見えなくなる。元々細めなのが限界までキュウと細められた瞳。糖分を得て血流がよくなったのか、薄桃に上気する頬。ふわりと自然に柔らかく持ち上げられた赤い唇。透は決して目鼻立ちの派手なほうではない。悪いわけでもないが、良くも悪くも人並みの容貌である。だが、その笑顔は悠介の心の深い部分に突き刺さった。心を奪われるとはこういうことなのだ、と、瞬時に理解した。
「すごいね悠介くん、とっても美味しい」
上機嫌な声で我に返る。透は包みをもうひとつ開けるところだった。ふたつめも同じように歯で半分に割ってから口に放り込む。
「あー……。気に入ってもらえたなら、ヨカッタ、デス」
心臓が激しくどくどくと鼓動を打って止まらない。顔に熱が集中する。悠介は下唇を噛み、バッグの肩掛けをぎゅっと握って、落ち着かない心を抑えつけた。
身に渦巻く激情の波を、この感情の名前を、悠介は知っている。何ということだ、自分はとっくに――透に恋をしていたのだ。
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