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 帰りの車内で透の口数は少なかった。落ち込んでいるというよりは、体調が悪くて口を開くのがつらいといった感じだ。無意識だろう、口許にあてた右手が小刻みに震えていて、これは駄目だ、と思った。 「透さん。もう少し行ったところにパーキングがあるらしいんだけど、寄ってもらってもいい?」 「うん、分かった」  三分ほど走ったところで、道の左側に簡素なパーキングエリアが見えてくる。トイレと自販機が設置されているだけの簡素なものだが、十分だ。他に一台も停まっていない駐車場に車を止めた透は、ふう、と苦し気なため息をつく。悠介は車から降りると、そのまま運転席のほうに回りドアを開けた。 「ど、うしたの?」  キョトンとしている透の体を覆うように手を伸ばし、シートベルトを外させる。そして手を引いて車から引きずり出した。 「透さんも降りて。トイレ行こう」 「え、悠介くん、ちょっと」  透の抵抗なんて抵抗にもならない。悠介の手をどうにか振りほどこうとしたり、脚を踏ん張ったりしているようだが、そんな華奢な体で高校球児に敵うはずがないのだ。有無を言わさず透を男子トイレに連れていくと、一番奥の個室に押し込んだ。 「我慢しないで。気持ち悪いんでしょ」 「嫌だ、悠介くん、離して」 「俺の前では無理しないで」  男として、大人として、そもそも人としての矜持があるのだろう。抵抗があるのは分かる。だがこれ以上つらそうな透を見ていられなかった。  優しく背をさすって、体を屈めるように促す。透は最後まで抵抗したが、もう限界だったようだった。便器の縁に手をつくと、苦し気な声をあげて胃の中のものを吐き出した。  白い手も薄い背中もふるふると震えている。その弱々しさがいたたまれなくて、さらりと揺れる黒髪ばかり見ていた。 「う、うえっ……う、うう……」  えづく声に、涙がまじる。嘔吐にともなう生理的なものか、年下の男の前で醜態をさらしているという屈辱ゆえによるものなのかは、判断しかねた。悠介はただただ優しく体を支え、背を撫で続けた。 「はい、飲める?」  パーキング内のベンチに座らせた透に自販機で買ったスポーツドリンクを手渡す。蚊の鳴くような声で「ありがとう」と言って受け取った透の顔は未だ青白いままだが、それでも先程よりは幾分かすっきりしている。 「なんか……ごめんね。僕のほうが大人なのに、こんな風に迷惑ばかりかけて」 「ううん。透さんのこと迷惑だなんて思ったこと一度もないし」  隣に腰かければ、ペットボトルを握る透の手にぎゅっと力がこもるのが分かった。その顔には、悲壮としか呼べないものが漂っている。疲れた大人の顔だった。 「悠介くんは……どうして僕にこんなに良くしてくれるの」  唐突にそんなことを言うものだから、つい零れ落ちそうになってしまう。あなたが好きだからですよ、と。言ったって、困らせるだけに違いないのに。大きく息を吸いこんで、気を落ち着けてから口を開いた。 「……辛気くさい話キライなんで、あんま人に話したことはないんですけど。俺んち、俺が中学のときに母ちゃんが死んでて」  悠介が自分で食事や弁当の支度をしている時点で、薄々察してはいたのだろう。透に驚いた様子はない。うん、と小さくうなずいて、痛ましげに眉根を寄せるだけだ。 「料理がスゲーうまくて、食べるのも大好きな人だったんだけど、病気になって……最後のほうはもう流動食しか食べらんなくて。先が長くないって分かったときも笑ってたのに、時々、カレーライスが食べたいとか、家でごはん食べたいとか言って、悲しそうな顔すんの。それが何ていうか、もう、いたたまれなくてさ」  母の墓前でいつも思うのは、あれを食べさせてやりたかった、これを食べさせてやりたかったという後悔ばかりだ。だから。 「それで、ごはん食べらんない人見てると放っておけないんです」  今まで、家族にすら言ったことのない胸の内。重たかった、だろうか。恐る恐る隣の顔を見れば、なぜか先程以上に真っ青な顔をしていた。 「え、透さん?」 「僕、……僕、ごめんね。君のお母さんは食べたくても食べられなかったのに、僕は、僕は……」  そういう風にとってほしいわけではない。ペットボトルを握りしめるその白い手を、更にその上から握る。暑い日だというのに、冷たい手だった。 「透さんだって食べれなくて苦しんでるじゃん。俺は透さんのことも助けてあげたいと思ってるんですけど」  傲慢な言い方だったろうかと相手を窺って、ぎょっとした。先程まで真っ青だった透の顔は、真っ赤だった。 (え? どうしてそんな顔?)  つられて悠介まで顔が熱くなる。何だろう、この気恥ずかしい時間は。 「もう十分助けられてるよ。僕、その……胃腸が弱くて、今日みたいに戻してしまうこともあるんだけど、なぜだか不思議と悠介くんのお弁当は食べられるんだ。本当だよ、いつも残さず食べてるんだよ」  何という、殺し文句だろうか。真横の華奢すぎる体を抱き締めたいと思ってしまうくらいには感動している。震える声で「すげーうれしい」と返すのが精いっぱいだった。こんな一言で舞い上がれるだなんて、無味乾燥だった頃の自分からは考えられない。 「でも、何ででしょうね」 「うん、本当不思議」 「透さんの血肉になってくれるならいくらでも作りますよ。リクエストあったら言って」 「じゃあ前に入ってた春雨の和え物が美味しかったから、また入れてほしいなあ」 「もっとカロリーあるものにしません?」 「ええ?」  ようやく透に笑顔が戻ってくる。この人は笑顔が一番似合う、と安堵した。

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