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透の言葉通り、彼から連絡が来るまでには二日かかった。仕事用の携帯からだというそのメールには、来週の木曜ならば終業後に時間がとれるという旨が簡素に書いてあった。
三回目の待ち伏せは堂々と待っていることができた。「桂坂コンサルティング」のビルから少しだけ離れたところでガードレールにもたれて待つ。五分も経たないうちに透が出てきた。かしこまった場にでもいったのか、ここ最近には珍しくネクタイを締めていた。少し辺りを見回して、悠介の姿を確認すると、まっすぐに歩み寄ってくる。
「ごめん。待ったかい」
「ううん、全然」
ふわりと微笑む顔にも、やわらかく語りかける声にも元気がなくて、悠介は心配になる。ちゃんと栄養をとっているのだろうか。
「ちょっと移動しようか」
そう言って透が向かったのは全国チェーンのコーヒー店だった。悠介はあまりコーヒーが得意ではなかったが、透に合わせてアイスカフェオレを頼んだ。
夕飯の近いこの時間、店内は程よく空いている。一番奥まったところにあるソファ席に落ち着くと、悠介のほうから話を切り出した。
「こないだは突然押しかけてごめんなさい。仕事あるのに、こうして時間とってくれてありがとう」
「ううん。元はといえば逃げるようなことをした僕が悪いのだし……、というか、よく会社が分かったね?」
「うん。桜木町にあるって聞いてたし……まあいいや。でさ、この間の人、だれ?」
透の表情が強張る。全てを話す決意をしてくれたから今日こうして場を設けたのだと思っていたが、まだ迷いがあるらしい。腹の奥がむかむかしたが、ここは耐えるところだ。ストローの袋をむだに指先でもてあそんで気を紛らわせ、ひたすら待った。永遠にも感じられる沈黙のあと、ようやく透が口を開く。
「…………恋人」
――全身から力が抜ける。ないない、と内心で笑い飛ばしながらも、捨てきれなかった可能性。それがまさかの、的中だった。透の顔が見られない。目の前がくらくらした。
「……男の人と付き合ってんの?」
「うん。引いた?」
「びっくりはした」
透を傷つけたくはないから、なるべく過剰に反応しないようにと思っていたのに。体を支える力が湧いてこなくて上半身がぐらぐらする。
恋人。透に恋人がいた。口にしたら泣きだしてしまいそうで、せめて顔を見られないようにと目元を両手で覆って机に伏せた。
「まじかー……」
初恋は実らない、とはよく言ったものである。こんなに他人に夢中になったのは初めてのことだったのに、その相手には恋人がいた。笑ってしまう。
なのに、指の隙間から見上げた透の顔は、恋人がいて幸せハッピー、という感じではない。毎朝バス停のベンチで作業のようにパンを胃に詰め込んでいた頃と同じ、何かに耐えているような、追い詰められた顔をするから。だから悠介は簡単に諦められない。
「……どんな人?」
「ああ、えっと……」
薄く笑った透の顔がさっと曇る。その手元でアイスコーヒーの氷が解けて、カランと涼しげな音をたてた。透はコーヒーにシロップを淹れなかった。そんな些細な事実が今はちくちくと肌に刺さる。
「遼太郎っていって……、何やってもドジで鈍くさい僕なんかと違って、何をやってもできる、すごい人」
そう語る透の目が優しくて、泣きたくなる。だが、重たいため息とともに吐き出された以降の話は、悠介が思っていたよりもずっと、深刻なものだった。
「遼太郎……遼は、すごく僕を大切にしてくれるんだ。それが、少し行き過ぎることもあって……」
歯切れが悪い。伏せたままだった顔を上げて、透の目をまっすぐに見据えた。
「透さん。俺頭わるいから、はっきり言ってくれないとわかんないよ。要するに束縛がひどいってこと?」
眉間にキュウと皺が寄る。透はためらいがちにだが、静かにうなずいた。
「彼は僕の人間関係を把握したがるんだ。携帯も毎日チェックされるし、他の人と出かけるなんて許してくれない。会社の飲み会にすら行けない。仕事帰りもまっすぐ帰らないとひどく怒らせるし……」
「えっ、じゃあ今日は……」
それに七月のはじめには遠出だってしているのに。こんなことをしていては、その遼太郎とやらに透がひどい目に遭わされるのではないだろうか。焦った顔をする悠介に、透は少し困ったように笑った。
「彼が出張でいないときを狙ってるんだ。今日も、前のときも」
なるほど。あのとき――悠介が「ごはんおごってよ」と言ったあのとき、透が確認していたのは己の予定ではなく、恋人の不在日だったのだ。
「悠介くんのお弁当箱も、うまく隠してたんだけど見つかって壊されちゃって。本当にごめん」
「ううん。そんな事情があるなんて知らなかったし……それよりも、何でそんなことされてもまだ一緒にいるの」
悠介に責める気持ちはなく、ただ純粋に疑問として言っただけだった。だがその言葉に透は、今日見せた中で、いや、今までで一番というくらい、悲しい顔をした。
「あれは……愛情の裏返しだから」
その言葉に、目の裏がカッと赤くなる。悠介の中で突然燃え上がったその感情の名前は、怒りだった。
「じゃあ何で透さんはそんなに痩せてるの?」
今度ははっきりと苛立ちが声に出た。透がビクリと体を強張らせるのが可哀想だが、止まらない。
「ごはん食べられてないから痩せていくんでしょう。もしかしてろくに食事も与えてもらえないの?」
「ちっ、違うよ! 遼は仕事もすごく忙しいのに、毎日夕飯と僕のお弁当まで作ってくれて……」
その言葉には黙っていられなかった。目を覆っていた手を外して、透の顔を真正面からひたと見据えた。
「は? じゃあ何でパンだけで生きてんの。俺の弁当食べてくれてるって言ってたじゃん。あれは嘘なの?」
「ちが、ちょっと待って、聞いて」
どうしてこう、喧嘩のような空気になるのだろう。透を責めたいわけでもなければ、困らせたいわけでもないのに。むしろ彼を助けてあげたいと思っているはずなのに。ひどく苛立っている自分を止められない。透にひどく当たっているその遼太郎とやらにも、そしてそれを黙って受け入れている透にも腹が立つ。そんな悠介の心中も知らず、透は今にも泣き出しそうな弱った顔で言葉を紡ぐ。
「僕が、遼の作ったものを食べられないんだ。彼の前では無理して食べるけど、あとで吐いてしまう。パンとかの市販品は大丈夫なんだけど、料理の形をしたものは全部だめで、本当に悠介くんのお弁当だけなんだ。でも遼は悪くない、彼の愛情を受け止められない僕が、僕が悪いんだ……」
愕然とした。悠介が思う以上に、透は追い詰められていたのだ。毎朝バス停で和やかに会話していた頃も、家では重たすぎる恋人の愛情に体が拒否を起こし、毎日嘔吐してしまっていたのだ。そんな、そんな中に透をいつまでも置いておくわけにはいかない。
「もう精神的に限界なんじゃん。自分でも分かってるでしょ? 俺、透さんが心配だよ。離れないとだめだ、その人と」
「無理だよ!」
突然の大声に、店内にいたまばらな客が何事かと視線を寄越す。悠介は他人の視線などどこ吹く風だが、透ははばかるように声をひそめた。
「僕には、遼がいないとだめなんだ。男の人しか好きになれない不完全な僕を受け入れてくれるのは、遼だけなんだ。彼を失ったら、僕は生きていけない……」
そう言って、両手で顔を覆って俯いてしまう。
そんなことはない、俺がいるよ、と言うべきなのに。言葉は喉の奥に引っかかって出てこない。初めて知った透の一面はあまりにも重たくて、悠介にはその「大人」の領域にずけずけと入っていく勇気が持てない。
二人の在り方は間違っている、とは思う。だけれど、自分よりも何年も多く生きてきた人たちだ。そして、同性同士という茨の道を歩いてきた人たちだ。自分の何倍もつらい経験をして、様々なものを見てきた人たち。その人たちのこれまでの生き方を否定するようなことなど、軽々しく口にはできない。平凡に無感動に生きてきたただの高校生である悠介には、何も言えなかった。
身を刺すような沈黙が続いた。
「こんな話をしてごめん」と呟く透の声は、控えめな店内BGMよりもずっとずっと遠くに聞こえた。
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