15 / 22

5-1

「悠にい、今日の夕飯なあにー」 「卵とじうどん」  刻んだネギをボウルに空けながら振り返らずに言えば、「ええ?」と素っ頓狂な声が返ってきた。 「昨日も煮込みうどんだったじゃん!」 「そうだったか?」  はて。そういえば昨日の夕飯はどんなメニューだったろうか。今日の朝も、昼も。自分が作ったはずなのに全く思い出せない。 「それに、うどんなら何で炊飯器がオンになってんの?」 「え? ほんとだ……」  米を炊いた記憶はないのだが、現に炊飯器はしゅんしゅんと激しく湯気を噴いて、絶賛活動中だ。 「それじゃあ親子丼に変更するか」 「そうして。ていうかどうしたの悠にい、昨日からずっとぼんやりしちゃって。らしくなくない?」 「そう、かなあ」  米が炊けるまではまだ時間がある。去年の誕生日に弟が買ってくれた紺色のエプロンを外して椅子に掛けておくと、ため息とともに台所を後にする。  自室に戻ると、吸い寄せられるようにベッドに倒れ込んだ。 (――らしくない、か)  そうかもしれない。頭の中ではずっと、先日見た透の姿が回っている。両手で顔を覆って俯いていた。その薄い肩も、細い腕も、暑い日だというのに小さく震えていた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。 『彼を失ったら、僕は生きていけない……』  そんなことを言われたら、離れろなど言えない。だけどその恋人と透が一緒にいるのは破滅に向かっているとは思えない。このままではどちらも駄目になるに決まっている。  コーヒー店で話したあの日から四日が経った。透は今頃何をしているだろうかと、携帯を開く。当然のように何の音沙汰もない。時刻は六時五十分。仕事中だろうか。この時間ならば帰りのバスに揺られている頃かもしれない。それか、あの遼という男の車で。 「――ッ……」  苦しい。透とあの男が今も一緒にいるのかと思うと。この瞬間にも透は苦しんでいるのかもしれない、今日も夕飯を戻してしまうのかもしれない。考えれば考えるほど、胸が痛くなった。 (透さん……会いたい)  沈黙を保っている携帯電話を見詰める。何を話したらいいのかは思い浮かばないが、こんな気持ちを抱えたままこれ以上過ごすのは御免だ。率直に、思ったことを伝えることにした。 『透さんに会いたい』  それだけの文面をつづって送る。次に返事が来るのは何日後だろうかと携帯をベッドの上に放り投げる。そろそろ米が炊ける頃合いかもしれない。味噌汁だけでも先に作っておこうと体を起こしたとき、背後で携帯が震える音がした。布団に吸い込まれ若干くぐもってはいたが、確かに聞こえた。  まさか。友人の誰かだろう。しかしこのタイミングで。  恐る恐る携帯を手に取り、息を呑んだ。 「……っ!」  透からだった。 『悠介くんのお弁当が食べたいです』  たった一行。その言葉ひとつで、先程までの鬱々とした感情など吹き飛んでしまう。汗ばむ指先をせわしなく走らせて返事を送った。 『作って持っていきます! 会社でいい?』  またしてもすぐに返事は返ってきた。今は「遼太郎」はいないのだろうか。それともまだ会社にいるのか。次のメールを開き、浮かれ上がった気持ちは一瞬で地に落ちた。 『実は今、入院しています』 「……は?」  入院。その二文字の意味がすぐには頭に入ってこなかった。病院に入ると書いて入院。つまり。 「入院? えっ?」  階下から響いてきた炊飯器の呼ぶ音で、はっと我に返る。焦る手で、何度か打ち間違えながら文面を綴る。本当は今すぐにでも駆け付けたかったし、せめて電話がしたかった。しかしこの時間では面会は無理だろうし、この携帯に透の番号は登録されていない。 『わかった。明日病院に持っていく。何が食べたい?』  今度の返事は少しだけ間をおいて返ってきた。そして、その内容に拍子抜けする。 『ちくわにきゅうり入れたやつ』 『もっと栄養のあるものにしてください!』  送信するや否や、机の上に置いてあった財布を掴んで部屋を飛び出す。今ならばまだ近所のスーパーに間に合う。およそ三週間ぶりの弁当だ。気合いを入れなくては。  弟の「にいどこにいくの? 夕飯は?」という焦った声を背中に受けつつも、夕暮れの町へと駆け出した。

ともだちにシェアしよう!