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「透……さん?」  先程まで笑顔でおかずを頬張っていた透は、空になった弁当箱を両手で大切そうに挟み込み、静かに泣いていた。異音の正体は、押し殺した嗚咽だった。 「どうしたの、なんか嫌いなものでも入ってた?」 「っ、悠介くん、の、お弁当が変わらずおいしいから……」  理由になっているような、なっていないようなことを言う。 「お弁当作ってきてほしいなんて、ワガママ、言ってごめんね。僕、病院食も全然食べられなくて、そうしたら悠介くんのお弁当が無償に恋しくなって……」 悠介は椅子に座り直すと、震えている透の腕にそっと触れた。相変わらず冷たい肌だ。少しでも熱を分けてあげたくて、ゆっくりと前後にさする。  透は嗚咽の合間にぽつぽつと話し出した。 「ゆ、悠介くんと仕事帰りに会ったあの日、家に帰ったら、出張にいってるはずの遼太郎がいて……」 「えっ」 「こんな時間までどこに行ってたんだって問い詰められて、仕事の後輩と寄り道してたんだって誤魔化したから悠介くんのことはばれてないけど、遼はすごく怒って……」  話だけで異常だと分かるほど透を縛っていた男だ。ただでは済まなかっただろう。 「携帯も財布も取り上げられて、定期だけ持って仕事に行って……遼の持たせてくれたお弁当は、一口も食べられなかった。本当に悪いことだと思ったけど、こっそり捨ててしまった」  とてもつらかったときのことを話しているはずなのに透の顔は笑みを保っていて、それがひどく遣る瀬無い。そうやっていつも、己を保ってきたのだろう。体を震わせ、とめどなく涙を流しながらも、きっとどこかで信じているのだ。自分は惨めではない、悲しくはないのだと。  なんて不器用な生き方なのだろう。そういうところがどうしようもなく守りたくなる。 「でも、夕飯は一緒の食卓につくからそうはいかなくて。僕の分の料理は遼の半分しかなくて、それでも食べれるかって優しく聞いてくれて……なのに僕は、僕は、それを遼の目の前で……」  う、と息を詰まらせる透の長い睫毛からいくつも滴が滴るのを、悠介は黙って見ていた。遼太郎の目の前で嘔吐してしまった透はそのまま倒れ、病院に運ばれた。そして胃潰瘍と栄養失調の診断を受け、入院に至ったのだという。 「遼、すごくショックを受けた顔をしてた。彼の前で吐いてしまったの、初めてだったから……。毎日、仕事のあとに病院に寄ってくれるんだ。でも、僕も遼も、もう何を話したらいいか分からない。どこをどう戻ればいいのかもわからないんだ」  はは、と、透の口から笑いが洩れる。彼には似合わない、自嘲的な笑い方だった。 「僕たちはどこで間違ったんだろう。結局どうすればよかったのかな」  きっともう、とっくに限界だったのだ。透が遼太郎の料理を食べられなくなった頃から、崩壊は始まっていた。それに二人とも見て見ぬふりをしていただけなのだ。 「僕はこれからどうしたらいいんだろう。遼はもう僕を受け入れてくれないかもしれない。だって僕のほうが彼を拒絶してしまったんだから。遼を失ったら、僕は……」  顔をくしゃりと歪ませると、大粒の涙をポロポロとこぼす。ずっと誰にも言えなかったのだろう。ひとりで耐えて、腹の底に溜め込んできたのだろう。愚かしいまでに不器用で愛おしい人を、悠介はそっと抱き寄せた。  透の目が驚愕に見開かれる。ぱちぱちと瞬きをしたのに合わせて涙の滴が弾けて飛び、それが綺麗だなんて考えた。 「透さん、もっと俺を見てよ」 「悠介……くん?」  なんて細く、繊細な体なのだろう。抱き締めたら折れてしまいそうだといつも思っていたが、本当に折れそうで怖いくらいだ。この体を守りたい。この人を守りたい。二度とつらい涙を流さなくていいように。悲壮な思いを抱えて食卓に向かわなくていいように。 「なんであの人だけって決めつけるんだよ。透さんのこと必要としてる人はもっといるよ」 「でもっ、でも僕は、男の人しか好きになれない上に、何をやっても駄目で、見た目だって地味だし、なのに人が気持ちを込めて作ってくれたものを、吐いてしまうような……最低な人間なんだ、僕は」  早口でまくし立てられるその言葉をこれ以上聞いていたくはなくて、悠介はその口を塞いでやった。己の、唇で。 「――……ッ!」  透が息を呑む。それすら己の口で封じ込めた。初めて触れた透の唇は、冷たくて、少し乾いていて、そして最後に食べただし巻き卵の味がした。  そっと唇を離して、ぼんやりと潤んだ透の目をまっすぐに見据える。左右の二の腕をしっかりつかみ、自分の存在を知らしめる。  透と、キスをした。その事実が今更ながらに込み上げてきて、顔が熱くなる。透がぽかんとしているうちに口を開く。 「俺の好きな人を、それ以上けなしたら許さないよ」 「えっ……え?」  呆けた顔で聞き返してくる透の鈍さに苛立ちすら覚える。悠介とて器用な人間ではないのだ。回りくどいのは苦手だった。 「透さんが好き。大好き」  そう告げた瞬間の透の反応は見物だった。目を真ん丸にし、口をぽかんと開いたあと、爆発するかのようにぼんっと顔が真っ赤になったのである。 「え、あ、……あ?」  口をぱくぱくさせて、言葉にならない音を発している。その様子がおかしすぎて、先程まで緊迫していたのなど忘れて悠介は噴き出した。 「こんなにアピールしてたのにやっぱり気づいてなかったんだ?」 「アピールって、ええ?」 「好きです。大好き。透さんを助けてあげたい。美味しいものいっぱい食べさせて、健康にしてあげたい。あなたを苦しめるつらいものから守ってあげたい。誰よりもあなたを大事にしてみせるよ、だからもっと俺を見てよ」  急激に押し寄せてくる愛の言葉に、理解が追い付かないのかもしれない。透は「困惑」を具現化したような、しかし真っ赤な顔でうろたえている。 「でも遼太郎って人が、曲がったやり方だけど透さんを大事に思ってるのも分かる。だから、無理強いはしない。最後に選ぶのは透さんだよ」  なるべく優しくそう言って、もう一度か細い体を抱き締めた。毎日甘ったるいパンばかり食べていたせいだろうか。首筋からふわりと甘い香りがする。 「僕が……」 「うん。どっちを選んでも、もしくはどっちも選ばなくても、俺は怒らないから」  ぽたり、と。最後の一滴が悠介の肩に落ちる。こんな風に誰かの涙を愛おしく思う日がくるなど、以前の悠介には考えられなかった。そんな自分は嫌いではなかった。

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