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6-2
「遼。僕は……遼のごはん、本当はいつも吐いてた」
遼太郎の顔が強張る。
「遼が僕のために、忙しい時間を縫って作ってくれてるのが分かってたから、頑張ってその気持ちに応えようと思った。でもそう思えば思うほど、食べられなくなっていって……体が受け付けなくなっていった。もう、とっくにだめだったんだ、僕たち」
その言葉の重みは、悠介には分からない。長いときを共に過ごし、捩じれた関係に気づきながらも必死で取り繕い、だけれど確かな愛情で結ばれていたふたり。彼らにしか分からない。だから黙っていた。
はじめに動いたのは遼太郎だった。
ツカツカと足音を立ててベッドに歩み寄ると、透を支える悠介の体を引き離し、透の肩を掴んで顔を上げさせ、――その頬を張ったのだ。
パンッ、と甲高い音が病室内に響き渡る。最低限の膨らみを取り戻したばかりの透の左頬が、赤くなっていた。
「……ちょっと、何するんですか!」
慌てて庇おうとするが、遼太郎の力は存外に強かった。悠介を右腕で制すと、左手で透の病院服の襟をつかみ上げる。
「透。最後だ、選べ」
その声にどこか慈悲があったと思ったのは、悠介の気のせいだったろうか。悠介、遼太郎。二人の男が固唾をのんで透を見守る。
はらはらと透明な涙を流しながら言葉を詰まらせる透を、悠介は穏やかな気持ちで見守った。どれだけ経ったろうか。はあ、と透の口から詰めた息が吐き出される。そして、本当に小さな声で、しかしはっきりと告げた。
「僕は、……あったかいお日様みたいな、悠介くんのお弁当がいい。遼太郎、ごめんなさい。別れてください」
その一言は、誰の心にも重たく響いた。
――遼太郎は、ひとつ大きなため息をつくと、透の胸倉を放してぱっと背を向ける。
「そうか」
その一言を彼がどんな顔で言ったのかは、分からない。だが悠介はその後ろ姿に、透への確かな慈しみを見た。今まで透に愛情を注いでくれた。そして、きっと今彼は、透のことを思い身を引こうとしてくれているのだ。不器用ながら、しかしこの男が真っすぐに透のことを想っていたのだということが伝わってくる。そんな背中だった。
「ならば二度と帰ってくるな。 ……大事にしてやれなくて、すまなかった」
それはひどく、穏やかな声音だった。
「ううん。僕こそ遼の気持ちに応えてあげられなくてごめん。今まで……ありがとう」
「大人」二人の関係は、それで終わった。
音ひとつ立てず、病室のドアが閉じられる。しばらくの間、二人で黙ってそのドアを見つめていた。
「忘れ物ない?」
「うん、ほとんど私物ないし、大丈夫」
透の入院生活は一週間で終わった。点滴による栄養摂取と、後半は少しずつ病院食を食べられるようになったこと、それから悠介の毎日の弁当持参により、一時期は骨が浮き出るほどだった体も何とか人らしい柔らかさを取り戻している。
ほんのわずかの着替えと、財布や携帯電話などの細かな私物を詰めたボストンバッグを担ぎあげる。透が慌てて「自分で持つよ」と言ってくるが、聞きはしない。その薄っぺらい肩にどうして荷物を負わせられようか。
最後にもう一度病室を見回す。この個室は、遼太郎が手配したものだという。どこかぼんやりとした顔で部屋を見詰めている透の華奢な手を取ると、ともに病室を出た。
「……あれ?」
異変に気付いたのはふたり同時だった。透の個室の前に、キャリーバッグがひとつ置かれていた。結構大きめのもので、しかしどこにでもあるような普通のキャリーバッグだ。だが透はそれに見覚えがあるらしい。大きく目を見開くと、そこが病院の廊下であることを忘れたのか、最初から気にしていないのか、おもむろに屈みこんでフタを開け始める。
中には結構な量の衣服と、コップなどの食器、それから歯ブラシなどの身の回り品が入っていた。透はそれを、ひとつひとつ確かめるようにじっくり眺めている。悠介にも分かってしまった。それはきっと、透が遼太郎と暮らす家で使っていた私物だ。それがここにあるということは、つまり。
「……遼……」
バッグを閉じると、苦し気な声で一度だけつぶやく。
彼がどんな気持ちでそれをここに置いていったのかは分からない。もしかしたら、憎々しげに捨て置いていったのかもしれない。だけれど悠介は、あの日「大事にしてやれなくてすまなかった」と言った、あの声音の優しさを信じたかった。
「……ごめんね。行こうか」
「うん」
透は色々なものを振り切るように勢いよく立ち上がると、キャリーバッグを引いて歩き出す。きっと穏やかで輝いていた日々もあったのだろう。純粋に遼太郎を愛おしいと思った日々もあったのだろう。だけれど、彼は悠介を選んでくれた。そのことがこれ以上なく嬉しかった。
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