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7.ポーラスターに乞う①

 吹雪は震災孤児だった。  中学二年の春に北斗の通う中学校に編入してきて、それからずっとこの街にいる。親戚に引き取られたとはいえ、帰る家を失くして、別に可哀想とか思ったわけじゃないけど。でも、彼の寂しさとか、孤独とか、そういったものを癒してやりたいと思ったのも事実で、実際できるなら自分だけだと思っていて。  けれどそれは、とんでもない思い上がりだったのだと、のちに知る。  ずるいなあ、と北斗はほろ酔いの頭でぼんやりと思った。目の前では昴がもう何杯目かわからない酒を口にしている。本人の顔も真っ赤で、大分前から会話もろくにできていない。  あの店に吹雪がいた。彼も職場の人と来ているみたいで、一瞬目が合った。 (北斗はなにもしないから) 「…………」  そんなのわからないじゃないか。  北斗は飲みかけのグラスをテーブルに置くと、その手で舟をこぎ始めた昴の頬に触れた。  昴ならなんとなく断らないんじゃないかと思っていた。少し強引にお願いして、困っていることを伝えれば付き合ってくれると思った。 「…… 昴くん。もう、その辺にしませんか」  昴は聞こえているのかいないのかよくわからない返事をした。北斗は小さく息を吐くと立ち上がって会計を済ませ、昴を立たせて店を出た。 「あ、バス……」  しまった。もう最終が出てしまっている。昴の家はどこだっただろうか。ここから歩いて帰れない距離ではないが、それは素面の状態に限った話だ。今の彼は北斗に腕を組まれてようやく立っているような状態で、腕を離せばたちまちよろめいてしまいそうだった。 「昴くん、ひとりで歩いて帰れそう?」 「んん……」 「うち来る?」 「いく……」 「じゃあおいで」  おそらく年下の子を酔わせて自宅に連れ込むのはなんとなく悪いことをしているような気になるが、酒を飲んでいたしきっと二十歳以上だろうから問題ないだろう。仕方ない。不可抗力だ。  そう自分を納得させて、北斗は昴を連れて自宅に帰った。昴をソファに置いて、その顔の赤さにまず水だなと判断する。立ち上がりかけた瞬間腕を引かれて、北斗は振り返る。 「…… 北斗さん……」 「はい」 「このまえ…… の、あれ……」  ほとんど呂律のまわっていない状態で懸命に話そうとする昴に思わず頬を緩めながら、北斗は床に膝をついた。 「あの…… クリスマス…… どうだったかなって……」  もしかして心配してくれて、それで今日もこんな時間まで付き合ってくれたのだろうか。 「フラれてしまいました」  なにも正直に言う必要はないのに、事実が口をついて出た。別に嘘を言う必要もないけど。でも、わざわざ言う必要もないことだ。なんなんだろう。慰めてもらえるとでも思っているのか。  昴は黙ってしまった。困らせてしまった。困らせたかったわけじゃないのに。 「―― あの」  北斗が謝罪の言葉を口にしようとした、その時だった。腕を引かれて、次の瞬間には唇同士が合わさっていた。 「…………」  北斗は回る洗濯機の前で昨晩の出来事を思い出していた。 (…… キス、だよなあ)  あれは。どう考えても。  なんであんなことしたんだろう。  長いこと初恋の相手に拒まれて続けていたキスが、あんなふうに奪われるとは思ってもみなかった。いい歳して、九年も前の初恋をこじらせているせいでまともな恋愛経験がない。冗談も通じない。だから、彼の行動の意図もわからない。  白峰吹雪という男に初めて会ったのは、中学二年の春だった。先の地震で家族と住む場所を失くした彼は、親戚のいるこの地に越してきたらしい。母校があったのは田舎も田舎で、小学校と中学校の同級生の顔ぶれがまるで変わらない、下手をすればほぼ全員が十年近い付き合いになる集団の中に身を投じるのは、今思えばさぞ難儀なことだっただろう。  春休み真っただ中だったその日、北斗はたまたま委員の当番で学校の花壇の水やりに来ていた。たまたま、とは言ったが、本当にたまたまだったのか、担任が以前から計画していたことだったのかは本人に確認したわけではないのでわからない。 「北斗」  自分の受け持ちの生徒は必ず下の名前で呼ぶ先生だった。眼鏡で、穏やかそうな人だったと記憶している。 「新学期から一緒に勉強することになる、白峰吹雪くん」  担任の後ろからやってきた彼は、北斗に向かって小さく頭を下げた。 「先生ちょっと急ぎで用があって…… 北斗、学校の中案内してやってくれないかな。終わったら教務室か、グラウンドの野球部のとこにいるから」 「あ、はい。わかりました」  頷くと担任は「頼むな」とすまなそうに言って踵を返した。  そうして北斗はあらためて、吹雪を正面から見た。綺麗な子だな、というのが第一印象だった。それからどこか、寂しそうな子だとも思った。 「…… あの……」 「―― あ、ごめん」  目の前で怪訝そうな顔をされてようやく北斗は我に返った。黙ってじろじろ見つめてしまったことを詫びてから、北斗は尋ねる。 「どっか見たいとこある?」 「や、別に」 「じゃあ下から順番でいっか」  北斗はじょうろを片付けながら言って、吹雪と校舎に入った。一回の端から端まで案内した後は、また二階の端から端まで。その次は三階、と北斗は順に校内を案内した。 「疲れた?」 「少し」  どこから来たの、とかあんまり掘り下げたようなこと聞かない方がいいよな。  開け放たれた廊下の窓から吹いてくる風になびく彼の髪を見つめながら、北斗はそんなことを思った。先の大地震で、被災地から転入生が何人か来るという話は前から聞いていた。被災地の惨状も、連日報道されている。 「ここ、思ったよりあったかいね。校舎の中は寒いけど」  揺れる髪を押さえる姿に思わず見惚れていると、向こうが先に口を開いた。 「…… そう?」 「雪国だからもっと寒いんだと思った」 「でも今年は雪少なかったから」 「あ、そうなんだ」  大人しそうではあるが、暗いわけでもないし、落ち着いた雰囲気で話しやすい。もしかすると、彼自身は家族も含め大きな被害はなかったのかもしれない。  新学期が始まると担任から学校生活について困っていることがあればサポートしてやるように言われたが、そんな必要はなさそうだった。社交的、まではいかなくともそれなりに男子と話を合わせられるし、運動も勉強も並以上にできて容姿も優れているとあれば女子たちの注目の的になるのも当然だった。本人がそのことを鼻にかけていないのも彼らにとっては良かったのだろう。 「…… っ」  近頃靴が小さく感じる。履くたびに小指の付け根と踵が靴擦れを起こしている。まだ少しきついくらいだし、と我慢しているうちにこんなふうになってしまった。 「北斗ー、こっちのチーム人数足りないから出てー」 「あ、わかっ――」 「俺、出たい!」  クラスメイトに呼ばれて立ち上がろうとすると、横で吹雪が北斗の肩を押さえながら声を上げた。  もしかして、いやまさかな、と思いつつ授業後に絆創膏だけもらいに保健室へ向かった。運よく養護教諭が不在で、北斗はほっとした。事情を説明したら靴を買い替えるように言われるからだ。北斗とて買い替えたいのはやまやまだが、それが言えたら苦労しない。 「消毒が先じゃない?」  絆創膏だけ拝借して傷口に貼ろうとすると突然そんな言葉が降らされた。いつの間にか保健室にの入り口に立っていた吹雪は戸棚から消毒液を取り上げて北斗を椅子の上に座らせる。 「え、なん―― いった……!」 「痛そー」 「ちょっ、ちょっと待って、ちょっと待って、僕の知ってる手当てと違……!」  傷口へ適当に浴びせられた消毒液に悶える間もなく絆創膏を荒々しく貼り付けられ、北斗は突然のことで暴れる心臓を抑えた。 「反対の足出して」 「…… や、いいよ自分で……」 「脱がすね」  ささやかな抵抗もむなしく、もう片方の足にも先ほどと同じような荒い手当てをされて北斗は痛みにうめいた。それから、先ほどまでの荒々しさが嘘のような丁寧かつ優しい仕草で靴下を履き直させてくれる。 「靴、小さいんでしょ」 「…… 少しだけ」  小声で呟くと、吹雪はくすりと笑った。 「靴擦れしちゃうくらいね」  からかうように言われて思わず言い返そうと顔を上げ――、その瞳と、目が合った。 「わかるよ」  北斗は黙った。黙って、彼が戸棚に絆創膏や消毒液を戻すのをじっと見ていた。彼が震災で家族をなくして、今は親戚の家に住んでいるのだと後でクラスメイトから聞いて知った。  誰かが直接聞いたか、誰かの親が吹聴したか。どちらにせよ、喉奥がもやもやした。そして同時に気づいた。  自分は彼のことを知りたいのだ。深く。誰よりも深く。

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