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9.ポーラスターに乞う③
「あっつい……」
窓の外から聞こえてくるセミの鳴き声に、吹雪がうんざりした様子で呟いた。この学校にクーラーなどなく、夏は窓を全開にして授業をしている。
「なんで冬も死ぬほど寒いのに夏も暑いの…… おかしいよ…… おかしい……」
机に死んだようにうつぶせになっている吹雪の首筋には無数の汗が浮かんでいた。北斗は下敷きでぱたぱたと仰いでやりながら、彼の腕の下にあるプリントを見る。自習課題はとっくに終わっているらしい。
「終わった?」
「やっと終わった」
自分の手元のプリントを指して言われたので頷けば、吹雪は何か言いたそうに唇を開いた。
「…… 北斗、高校決めた?」
「ん…… まあ一応」
「どこ」
「東」
吹雪はそっか、と口にすると、再び机の上に伏せた。被災地からこの学校に転入してきた生徒はほかの学年にも何人かいたが、彼らはぽつぽつと地元に帰っていき、気づけばここに残っているのは吹雪だけになった。彼もいつか地元に戻るのだろうか。嫌だな、と思う。まだここにいればいいのに、と。
「俺も東にしよっかな」
「え、ほんと?」
なかば投げやりに呟かれた言葉だったが、北斗はその内容にぱっと顔を輝かせた。その顔に吹雪は珍しく面食らったような表情で、
「…… そんなに喜ばれるとは」
と口にした。
「言っとくけど宿題は見せないよ」
「見ないよ」
見せてくれと言ったことだってないとやや憤慨して言えば、吹雪はくつくつと笑った。
「だってなんかすごい嬉しそうだから」
「そりゃ……」
吹雪がからかうように言ってくるので北斗は恥ずかしさに顔をそむける。
「吹雪、帰っちゃうと思ってたから」
「…………」
正直に言えば、吹雪は口を閉ざした。不自然に訪れた沈黙に北斗が耐えかねて口を開こうとした頃、吹雪がようやく「帰らないよ」と口にした。
高校へ入学すると、吹雪の女子生徒からの人気は増すばかりだった。あの見た目であるし、あたりまえだとは思う。でも最近、北斗はそれが気に入らない。外側だけを見て騒いでいる連中を見るともやもやするし、むかむかもする。
「北斗」
教室のベランダから下校する生徒を眺めているとふいに、後ろから声をかけられた。
「帰んないの」
「…… ん」
北斗は吹雪の問いかけに曖昧に答えた。高校に入る時に背が伸びることを見越して大きめのサイズで購入した黒の学生服は、入学した頃に比べると裾の余りが全然違う。それは吹雪も同じで、彼のすらりとした長身は女子からの人気に拍車をかけているようだった。
「帰りたくない?」
「ってほどじゃないけど」
ついこの間、母が再婚した。再婚相手の男性のものへと変えられた苗字は当然自分のものとは思えなくて、まだ慣れない。同時に、家の中ではなんとなく居づらい。別に母も、まして義父となったあの人もけして悪くはないのだが。
「うち寄ってく? この前言ってた本貸すよ」
「あー、うん。そうする」
提案されて、北斗は頷いた。長居はできないだろうけど、そのあとはどこか適当な所で時間を潰そう。時間を潰せるような場所があればいいけれどと考えつつ、通学鞄を手に取る。
「そういえば吹雪、今まで何してたの」
「告白されてた」
「また?」
授業が終わってからしばらくの間姿が見えなかったことを指して尋ねると、そんな答えが返ってくる。告白自体は今更驚くことではないが、最近とみにその回数が増えているような気がしてならない。
「なんかさあ、あれみたいだよね。度胸試し」
教室を出て生徒玄関に向かう間にも、すれ違う生徒や遠くから吹雪を見つけた生徒がひそりと言葉を交わし合うのが見える。
「みんな俺のこと何だと思ってんだろうね」
吹雪の家――、もとい後見人である彼の叔母のマンションは、駅からだいぶ離れた所にある。
「ごめん、そういえば本、叔母さんに貸してたかも」
本棚を眺めながら吹雪が眉を寄せて言った。吹雪の叔母の存在を知ったのは、中学三年の個人面談の時だった。吹雪とほんの一回りしか違わない、同級生らの親よりずっと若い彼女が注目を集めていたのをよく覚えている。
「別なの借りてっていい?」
「好きに見てって」
吹雪は飲み物を取ってくると言って部屋を出た。吹雪がこの街に来て、もうすぐ三年になる。彼の部屋の本棚は教科書のほかには辞書と、北斗の知らない本たちが詰め込まれていた。前にいた家から持ってきたのか、こっちに来てからそろえたものなのかは知らない。本だけじゃない。吹雪のことは何も知らない。
と、その時、北斗の目の前がぐらりと傾いだ。目眩かと思った次の瞬間に、今度は反対側へ揺れる。そしてまた反対へ――。北斗は壁に手をついた。地震だ、と気づいて、思わず天井を見上げる。壁に掛けられたハンガーがわずかに揺れている。そんなに強い揺れではないと思いつつじっとしているうち、揺れは止んだ。
吹雪は大丈夫だったろうか。揺れは大きくなかったが、飲み物を持ってくると言っていたから、火元にいたかもしれない。
「吹雪、今少し揺れたけど――」
大丈夫だった? という台詞は、吹雪を見るなり宙へと消えた。吹雪はその場に力なく膝をついていて、まさにへたり込むという表現が合っていた。
「吹雪」
北斗が駆け寄ってそばに膝をつくと、彼の手が細かく震えているのがわかった。床にはインスタントコーヒーの粉が散らばっている。
「ふぶ……」
「―― 馬鹿みたいだよね」
吹雪、と再び声をかけようとすると吹雪がぽつりと言った。
「もう何年も経つのに、馬鹿みたいだ。こんなの」
震えのせいで力の入らない指先は、手のひらへ握り込むことさえできないようだった。
「…… 馬鹿じゃないよ」
「馬鹿だよ。―― みんな馬鹿だ」
吹雪の頭をそっと抱き込むと、彼は震える声で言った。抱き込んだ腕の中で、彼がぐっと唇を噛みしめるのが見えた。
「…… なんで……」
北斗の胸に額を擦り付けながら、吹雪が呟いた。
彼の苦しみを、寂しさを、自分ではわかってやることも、癒してやることもできなくて、北斗は彼を抱く手に力を込めた。それは小さな―― 小さな、絶望だった。
その夜、北斗は夜遅くなったことと、吹雪の叔母の勧めもあって彼の家に泊まった。吹雪のベッドで身を寄せ合い、同じ毛布にくるまって目を閉じた。そばには確かな体温がこの身に触れているにもかかわらず、北斗の胸にぽっかりと空いた穴が埋まることは、ついぞなかった。
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