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10.ポーラスターに乞う④

 義父は―― 新しくできた母の恋人はいい人だ。きっと母はしあわせになれるだろう。それは、安堵でもそのひとに対する信頼でもない。事実に対する評価だけがそこにあった。北斗はいまだに、この件に関して自分の意見を持てずにいる。 「―― え」  冷たい風の吹く体育館脇で北斗は小さく驚きの声を上げた。いや、驚きというよりは困惑の方が近かったかもしれない。どちらにせよ、たった今告げられた、どこかで聞いたような言葉がまさか、自分に対するものだとは到底思えなかった。 「あ…… えーっと」  入学した時からかっこいいと思ってて。  物静かなところが大人っぽくて素敵だなって。  そんな、自分とはかけ離れた世界での出来事だと思っていたことが、今目の前で起こっている。にもかかわらず、北斗はどこか他人事のように正面にたたずむ女子生徒を眺めていた。 「…… ごめん。その……」  自分事とはまるで思えないまま、やはりどこかで聞いた断り文句を口から引き出す。 「好きな人、いるの?」  北斗が口にする断り文句の隙間からごく自然に割り込んできた女子生徒からの問いかけに、北斗は言葉を止めた。  ―― 好きな人。  言葉の意味はわかる。でもそれは、北斗にとって物語の登場人物やその役割としての名称でしかなかった。 「北斗、どこ行ってたの」 「野暮なこと聞くなよ」  教室に戻るなり声をかけてきた吹雪にクラスメイトの男子がにやにやしながら言った。それから、同じようににやついた別の男子が北斗の肩を叩く。 「やったじゃん、今日からもう彼女と一緒に帰んの?」 「えっ」  その言葉にようやく北斗は事実が正しく伝わっていないことを察した。なんだか盛り上がっている彼らに申し訳なく思いつつ北斗は口を開く。 「いや、あの、僕今断ってきたとこで……」  言い辛さに語尾を濁しながら告げると、クラスメイトは「ええっ」と驚きと困惑の入り混じったような声を出した。 「もったいない。あの子けっこう可愛いし―― 付き合ったら…… ねえっ」 「何想像してんだよ」  クラスメイトのひとりがもうひとりを振り返って言い、もうひとりに突っ込まれる。 「北斗帰ろ」 「あ…… うん」  吹雪に言われて、北斗は鞄を持って教室を出た。  学校の外はひどい雨が降っていた。それぞれ傘は持っているが、この横殴りの雨風のなか、果たしてびしょ濡れにならずに駅まで辿り着けるかは怪しいところだ。 「少し待とうか」 「だね」  吹雪が提案して、北斗も頷く。晴れはしないだろうが、待っていれば多少穏やかになるはずだ。  生徒玄関の脇に植わった樹木を殴りつけながら降る雨に視線を送りながら、北斗はさっきのやりとりを思い出した。  ―― 付き合ったら……  どこかに隙間があるのか、ぴゅうぴゅうとか細い音が聞こえている。それに並んで、樹木に取りつけられた冬囲いがみしみしと音を立てていた。それは、ずっと北斗が喉奥で感じていた違和感に似ていた。  北斗は隣で同じように降りしきる雨を見つめる吹雪に目をやった。  その違和感は、そう、まるで―― 「だめだよ、北斗」  前を向いたまま、吹雪が言った。吹雪の横顔は相変わらず綺麗で、彼はゆっくりと北斗の方を向くと再び口を開く。 「…… だめだよ」  諭すような声だった。 「…… ど……」  北斗から逃げるように吹雪が生徒玄関の屋根の下から出て、傘を開いた。 「どうして……」  吹雪が振り返ってくるが、その顔はビニール傘に覆われて彼の表情はまったくわからない。かろうじて見える彼の薄い唇がすっと開く。 「帰ろう、北斗」  なんとなく、フラれたのだということだけはわかった。 (吹雪も、僕のことが好きだと思っていた? なんで?)  北斗は校舎脇の花壇の土にそっと触れた。土はわずかに湿っている気もするが、表面は少しぱらぱらしているような気もする。中学に引き続いて花壇の世話をする委員会に所属しているのは、単純にじゃんけんで負けたからだ。特別詳しくもない草花に少しだけ水を与えてやることにして古いジョウロを花壇に向けて傾けていると、誰かが近づいてくる足音がした。 「あ、北斗いた」  足音の方へ目をやると、探していた人物を見つけたためかほんの少しだけ顔をほころばせた吹雪がいた。 「何?」 「や、別に大した用じゃないけど」  北斗が首を傾げると、吹雪はそう前置きした。 「なんか三組―― 四組? の女子が、放課後お話があるので体育館脇に来てくださいって言ってたって言ってきてって言われたから、それ伝えに」 「…… あ、そう……」  想定していなかった相手に想定外の話を持ってこられて、わずかに返事が遅れた。吹雪はそれに気づいたのか気づかなかったのか「うん、そう」と頷いて花壇の前にしゃがみこんだ。 「この花壇、冬はどうすんの?」 「明日から委員でちょっとずつ鉢に移して玄関とか生物室に置くんだよ」  へえ、と吹雪は自分で聞いておきながら、なかばうわのそらで相槌を打った。そしてそのままどこかぼうっとした状態で北斗が水やりをする姿を眺めていたかと思うと、ふいに「あのさ」と口を開いた。 「北斗、放課後行くの?」 「え?」 「ほら…… 今言った呼び出し」  北斗は黙り込む。なぜ吹雪がそんなことを気にするのか、それ以前にどうして吹雪がこんな話を持ってくるのか。それを考えると無性に苛々した。 「なんで吹雪が僕にそれ言うの。…… 僕、君に――」  君にフラれたんだよね?  続きは言葉にできなかった。なにもかも、手に入らないような気がして。手に入らないことを、認めてしまうような気がして。 「その気がないなら、行かない方がいいと思うよ。期待させるのもあれだし」  北斗が口ごもったのに気づかないのか、あるいはそんなふりをしているのか、吹雪が言って、北斗は眉根を寄せた。 「…… なにそれ。じゃあ僕はどうしたらいいわけ」  刺々しさを表に出しながら言い返せば、すぐさまごめんと小声で返ってくる。 「―― 勝手なこと言った」  そうやってすぐに謝るくらいなら言わないでほしかった。この場から立ち去ろうと立ち上がると、「北斗」と今度ははっきりした声で呼び止められる。そのくせ、吹雪は何か言い辛そうに視線をさまよわせた。何、と促すとようやく彼は立ち上がる。 「…… 大学。向こうの大学行こうと思ってて……」  突然告げられた言葉に北斗が言葉を失っている目の前で、吹雪はもう一度言った。 「進学は向こうでしようと思ってる」 「―― どうして」  今度は吹雪が黙る番だった。何も言わずにうつむく吹雪に、北斗は一歩踏み寄る。 「帰らないって言った」  北斗の糾弾するような口調に吹雪は再び「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。 「嘘吐いた」 「…… 僕のせい?」 「それは違う」 「じゃあなんでっ――」 「ごめん」  さっきから何度も聞かされている言葉に北斗はまたしても黙らされる羽目になる。 「本当に、北斗のせいとかじゃなくて。…… 北斗は関係なくて。でも、北斗には…… 北斗のことは、大事な…… 親友だと思ってるから一番最初に伝えておきたくて――」 「―― わかった。もういい」  吹雪の言葉を遮るように北斗は言った。  目のひとつも合わせないで、なにが。なにが。 「僕、君がきらいだ。…… だいきらいだ」  そのまま、ジョウロ片手に北斗は吹雪の横を通り抜けた。  子どもにはやっぱり父親がいた方が――  あなたのことが心配で――  北斗のために――  小さい頃から幾度となく聞かされ続けた言葉たちが脳裏によみがえる。 「何がっ……!」  空のジョウロを投げつけた土の上で、ぼこんと鈍い音がした。どこにも響き渡らない、不細工で醜い音だった。  それから、吹雪へのあてつけのように告白してきた女子と付き合った。文系と理系でクラスも離れてからは話すどころか顔を合わせることもなくなった。吹雪のことを忘れようとがむしゃらに勉強した結果、もともと合格圏内だった公立大学の学費一部免除を受けることができたのは幸いだった。  大学二年のある日のことだった。北斗はスマホ片手に本屋をうろついていた。何度か訪れている本屋だが、頻繁に陳列が変わるためほぼ毎回店内を歩き回る羽目になる。 「あの、すみません」  目当ての本がどこにも見当たらなくて、北斗は近くにいた男性店員を呼び止めた。スマホの画面を見せて尋ねると彼は在庫を調べに行ってくれる。 「申し訳ありません。今在庫切れで……」 「あ、そうですか」 「取り寄せますか?」 「―― お願いします」  もっと大きい本屋ならあるかな、と考えたところでそう問われ、北斗は少し考えたのち頷いた。 「すばるー、ちょっと来てー」  取り寄せのための必要事項を記入する用紙に情報を書き終えたちょうどその時、カウンターの奥から別の店員らしき声がした。彼は奥を横目で一瞥すると北斗に取り寄せにかかる日数と届いたら連絡する旨を伝えて奥に引っ込んだ。 (…… すばる)  プレアデス星団。別名M25。主に冬に観測できる星たちの名だ。和名を、すばる。  同じ名前、だ。  電光掲示板に記された時刻に駆け足でホームに飛び込んだ瞬間、電車が北斗と入れ替わるようにホームを去っていくのが見えた。北斗は長いため息を吐いた。走り損だ、と思いつつ次の発車時刻を見ようと顔を上げる。と、後ろから駆け足で誰かが降りてくる音が聞こえる。北斗はほとんど反射で振り返って、その姿に目を見開いた。 「―― 北斗……」  北斗が口を開くよりも先に、向こうが呼んだ。北斗はといえば、聞きたいことはやまほどあるはずなのに、言葉が喉で渋滞を起こしているみたいに声が出ない。意図せず顔に力が入る。吹雪は少し寂しそうな顔をして、「久しぶり」と言いながらゆっくりと階段を降りてきた。 「変わりないみたいでよかった。…… 北斗、俺……」  その時だった。いつかと同じように、目の前がぐらりと揺れた。不意の衝撃に、北斗は危うく線路の上に落ちそうになった。さほど大きくない揺れは、以前と同じようにすぐに収まる。―― が、目の前の男はそうではなかった。 「大丈夫?」  吹雪をホームの椅子の上に座らせて北斗は尋ねた。吹雪の手は震えを抑えるように膝の上できつく握りあわされている。何か飲み物でも買ってきてやろうと踵を返した瞬間、腕をつかまれる。  気づけば抱きしめていた。いくら抱きしめようと、近づこうと、何ひとつとして埋まらないというのに。 「…… 北斗背伸びた?」 「落ち着いて第一声がそれなの」  北斗はなかば呆れたように息を吐いた。 「だいたい、君帰ったんじゃなかったの」  問いかければ吹雪は「それが」とどこか気まずそうに視線を泳がせた。さっき彼は北斗のことを背が伸びたと言ったが、彼も十分大人びているように感じる。 「叔母さんに反対されちゃって……」 「…… そうなの?」 「うん」  なんだか力が抜けた。その後ふたりで以前に戻ったように食事をして、別れた。  ―― それから三年余り、初めて出会った時から数えてもうすぐ十年。二十三になるこの歳までずるずると一緒にいる。  不毛だ。もう子どもみたいに身を寄せ合って眠る歳でもないのに。  数日前、忘年会で言った焼肉店で吹雪を見かけた。まさか、そんなはずはないのに、どうして彼の知らない男と仲良くしたくらいで妬いてくれるなんて思ったんだろう。  小さなテーブルにいくつも並んだ酒の缶と散らばったつまみの袋を見ながら北斗は「吹雪」と目の前の男を呼んだ。 「もうその辺にして。君飲み過ぎると夜中変な時間に起きるでしょ」  そう言いながら北斗が吹雪の腕を引いて立たせた瞬間、ぐらりと地面が揺れた。一瞬酒のせいかと思ったがそうではない。突然揺らいだ足元に吹雪は慌てて北斗のそばの壁に手をついた。ふたりの顔が近づく。  しばらくすると揺れは止んだ。  吹雪は詰めていた息を一気に吐き出すと口を開いた。 「けっこう長かったね、今――」  目の前の彼から体を離そうとすると同時に、肩先へと額が降ってくる。 「…… どうして北斗が泣くの」 「…… 泣いてない」 「泣いてるじゃん」 「泣いてない」  どれだけ泣こうが縋ろうが、その想いが返ってくることはないのだから。  ―― 不毛だ。  こんなことを続けても、何にもならないのに。  吹雪の肩越しに見える部屋の灯りがちかちかと瞬くのが見えた。明滅する光のこちら側で、北斗、と男の唇が動いた。 「ごめん。あの日、本当は話しかけたりするべきじゃなかったね。…… もう君に甘えたりしないし、部屋に誘ったりもしないから、君も――」  吹雪の言葉はそこで途切れた。原因となった彼の胸元をつかむ手は、感情にまかせてさらに力がこもる。 「―― どうしてッ」  北斗の声は、ほとんど涙声だった。 「どうして君はそういつも中途半端なんだよ。なんで僕の気持ちを知ってるくせに知らないふりをするんだよ。どうしてそうやって、僕の気持ちを中途半端に許すみたいな――」 「じゃあどうしろって言うんだよ!」  今度は北斗の声が途切れた。吹雪は同様に、彼の胸元をつかむ指先に力を込めた。 「俺だって君が好きだけど! ほかにどう――」  そこまで口にして、吹雪ははっとしたように口を噤んだ。 「吹雪」 「言わないで」  吹雪が失言を隠すように顔をそむけるが、北斗は止まらない。 「―― 吹雪、君は」 「お願いだやめてくれ!」 「君も僕が好きなら!」  感情にまかせて出した声が狭い部屋にこだました。 「…… 君も僕と同じ気持ちだったんなら、どうしてそれを僕に返してくれないの」  思いのほか落ち着いた声で尋ねると吹雪は北斗から顔を背けたまま数歩後ずさった。 「俺は」  詰めた息を重く吐き出しながら、彼は言った。 「…… 俺は、君といると、寂しい」  その瞬間、北斗は部屋を飛び出した。  真冬の冷たい空気が皮膚を裂く。  これ以上の拒絶があるだろうか。  あんなことを言われるくらいなら、お前など嫌いだと、顔も見たくないと言われる方がずっとましだった。  夜の街並みを走る北斗の頬を、凍るような熱が駆け抜けていった。

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