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11.slip,slip,slip①
「えっそうなの」
頭にタオルを被せたまま、昴はスマホに向かって問いかけた。つい先ほど洗った髪は、ほとんど拭かずに二階へ上がってきたせいでまだ生乾きだった。
「そんなに、お…… 怒ってんの?」
「怒ってるってほどじゃないと思うけど」
スマホの向こうから鷹弘がいつもと変わらない声で言った。
「ただ昨日はかなり久しぶりの集まりだったし、俺たちはすごい楽しみにしてたのに昴は最近知り合った毎週のように会ってる人の方を取るんだなって…… 昴が俺ら置いて帰ったあと二人してすごい酔って管巻いてたよ」
「いやめんどくさ…… お前ら俺の彼女か……」
昴は眉間に皺を寄せながら、「あと毎週は会ってない」と付け足した。
「え、もしかしてそれでふたりとも既読すらつかないわけ?」
そんなに面倒な奴らではなかったはずだがと思って聞けば「どうだろ」とひとりごとのように口にした。
「千晶はいつも通りスマホ放置してるだけだとして………… 昴さ、冬真が千世 ちゃんのこと好きなの知ってた?」
「…… 何て?」
千世ちゃんというのは千晶の妹だ。唐突に並べられたふたつの名前に昴は思わず聞き返す。
「俺も千晶がもしかしたらそうかもみたいに言ってんの聞いただけだけど。千世ちゃんは俺らの中で言ったらお前と一番仲良いし」
「別に特別仲良くは……」
彼女も本が好きらしく図書館でよく会うから、そこで時々話し込むことがあるというだけだ。と言っても、大抵千晶の話だけで終わる。
「…… まさかと思うけどそのせいで俺は未読無視されてんの?」
「そうかも? 昴が件の王子と千世ちゃんとで二股かけんのやめたら機嫌直るんじゃない」
「いや二股はかけてない…… ってかそもそも」
昴は思ってもみない方向から濡れ衣をかけられて思わず声を荒げた。
「昨日も言ったけど俺別にあの人と具体的にどうこうなりたいわけじゃ――」
「いや滅茶苦茶具体的なことしてんじゃん。キスしたんでしょ」
それも自分から。
元々の相談内容を掘り返されて、昴はベッドに倒れ込んだ。
「違うんだよ…… あのさ…… 気が付いたら相手の家で……」
「うわ、こいつキス以上のことやってる」
「聞いて」
「昴がそんな爛れた生活送ってるとは思わなかったわ。さよなら」
「マジで聞いて」
通話を切られそうな気配に昴は慌てて体を起こす。
「いや、俺これから出かける用事あるから」
「それ本当? 今後唐突に俺を避け始めたりしない?」
「…………」
「しないって言えよ!」
急に無言になった彼に突っ込めば、今日初めての笑い声が返ってきた。
「早く冬真と千晶に謝んな」
「や、そもそも既読が……」
出かけるのは本当だったのか、通話は切られてしまった。昴はいまだに既読がつかないメッセージ画面を眺めた。そういえば、北斗が先日貸してくれると言った本を、彼は見つけ次第連絡すると言ったが、何も言ってこないところを見るに忘れているのだろう。きっと自分だけが、ふわふわと浮かれたような気になっていた。最近引っ越してきたばかりと言ったから、友達がいなくて寂しかっただけなのかもしれない。目をつむると、彼の照れたような微笑が目蓋の裏に浮かぶ。自分は、あの人に――。
唇に触れた感触を思い出し、昴は急いで体を起こした。いけない。寝ているとこんなふうにぐだぐだと考えてしまう。良くない。
散歩がてらコンビニでも行ってこようと、昴は髪を乾かしてから家を出た。
家を出るとすぐ、冬真の家が持っている駐車場が見える。角を曲がればもう彼の家があって、スマホなんてなくてもいつでも会うことも話すこともできる。鷹弘と千晶を含めて四人とも小中学校が同じで、中学を卒業するまではなんとなくこの先ずっと一緒にいるんだろうとなんの根拠もなく思っていた。当然、そんなことはありえないんだけど。
千晶の妹の千世は、友達の妹で、幼馴染で、時々図書館で会う、それだけの関係だ。でも、冬真や鷹弘に比べたらそのぶん会う機会も話す機会も多かった。だから、もしかしたら。
(冬真はずっと、俺のことが嫌いだったんじゃないか?)
がつ、と足先に道路の隅でがりがりに固まった雪がぶつかる。消雪パイプから流れた水が、歩道の中心で凍っていた。ふと昴は、いつだったか冬真が、「千世ちゃんは昴のことが好きなんだよ」と呟いていたのを思い出した。
一番近いコンビニは家から徒歩十分のところにある。田舎という観点から見れば大分近いところにあるのだろうが、コンビニエンスストアという名前の割に品ぞろえが悪く、いつも欲しい商品に限って品切れを起こしている。
とりあえず煙草とガムと、何か適当に飲み物だけ買っていこうとカゴを手に昴は人気のない店内を歩いた。考えるのも面倒で缶コーヒーに手を伸ばそうとした視界に、ペットボトルに入った水が入り込んでくる。
―― お水、飲みますか?
―― はい。お水。
飲んだ水は確かに冷たかったけれど、この季節に蛇口から注いだにしてはやや温度が高くて、多分、ほんの少し湯が足されていたんだと思う。…… いや、というかその前に、自分はあの人と、キ……。
昴はじわじわと思い出されてきた昨夜の出来事に目元を覆った。
と、陳列棚の反対側から知った声が聞こえて、昴は思わず身を隠した。コンビニの能天気な来店音を鳴らして入ってきた姿を昴はじっと見つめる。
「え? じゃあ冬真くん家出るの?」
「まあ、今まで通勤に一時間近くかかってたから」
冬真と千世だ。この二人を前に別段身をひそめる必要性はないのだが、なんとなく見てはいけないものを見たような気がして昴は声をかけられない。
「冬だと倍かかるもんね―― あっ、あった、これこれ」
「なんだっけ、アニメの?」
そうそう、と言いつつ千世が手にした菓子の小箱を、冬真が横から取り上げる。
「お兄さんが買ってあげよう」
「えっ…… 冬真くん好き……」
黒じゃん。昴は棚の陰に隠れながらカゴを持つ手に力を込めた。
冬真と千世がそういう関係であってもなにか罪に問われるようなことではないのだが、なんとなくうしろめたいような気がしてしまう。
二人は付き合っているんだろうか。だとしたら、どうして自分には教えてくれないんだろう……。別に冬真が昴たちに彼女の話をしてくれたことなんてただの一度もないけど。
「ん?」
そのほかの商品と一緒に会計を済ませた冬真がふとこっちを見て、目が合う。
「昴じゃん、何してんの」
それはこっちが聞きたい気分だった。
*
「…… なんか千晶と鷹弘が、ていうかほぼ千晶だけど――、冬真と千世ちゃんの仲疑ってるっぽくて」
コンビニを出て歩きつつ説明すると、冬真と千世は顔を見合わせ、千世の方が昴に笑顔を見せた。
「私と冬真くんが? あはは、逆」
笑いながら言われて、昴は首をひねった。好き、付き合うの逆ってなんだろう。嫌いってこと? そういえば千世は冬真のことだけ冬真くんと呼ぶ。昴や鷹弘はさん付けなのに。さん付けするに値しないほど嫌いということだろうか……? でも嫌いな人とコンビニに来ないよなあ……。
友達と約束があると言って昴たちと反対方向へ去って行く千世を見送りながらいまだに首をひねっている昴へ、冬真が言った。
「昴、休み何日までつったっけ」
「え、あー…… 四日?」
昴が答えると、冬真は「じゃあ年明けにもう一回くらい集まれるな」と言った。
「千晶と鷹弘にも連絡しとこう―― あ、だめだ。俺昨日帰る時スマホ割れたんだ」
返信がなかったのは無視されているわけではなかったらしい。昴はあからさまに安心しつつ「その鷹弘だけど」と口を開いた。
「さっきまで電話してたんだけど出かけるからって切られちゃって」
「昨日帰る時に明日千晶と遊ぶからーつってたから、それじゃん?」
「あいつ……」
自分では昴に対して裏切り者を糾弾するような口ぶりだったくせに、あっさり千晶を取るとは。千晶との約束が先だったようだから、当然といえば当然だが。自分を納得させつつ固くなった雪や凍った地面に足を取られないよう歩いていると横で冬真が「そういやさ」と口を開く。
「例の王子とは進展あった?」
足元が滑ってよろめいたのと、冬真が尋ね終えるのが同時だった。
「何なんだお前ら皆して王子王子って……」
「お前が最初に言ったんだろ」
冬真の手を借りて、昴は立ち上がる。狭い道路の車線を、軽トラックが一台泥と雪を弾きながら駆け抜けていった。年の瀬であることは関係なく、この時間帯はいつも車通りが少ない。
「あの人とキスした」
昴は冬真の腕につかまったまま言った。うつむいていたせいで、言った瞬間の彼の顔はわからない。
「…… 付き合ってんの?」
返ってきたのは、からかいの言葉でも、拒絶を示す行動でもなかった。まして鷹弘のように驚くでもなく。真剣な声で、事実だけを確認するように問うてきたので、
「いや」
と、昴も正直に返した。
「俺も酔ってて…… 酔ってたのを免罪符みたいにしたくはないんだけど、でも、あの人に、俺酔って何かしませんでしたかって聞いたら何もしてないって言うし……」
「じゃあ、何もしてないんじゃない」
「で―― でもその………… か……」
感触、が。
何時間も経っているであろう今も唇に、そして口の中でいまだしっかりと息づいている感覚に昴はぐっと目をつむった。
「なら、試してみるか? 現実だったかどうか」
冬真が一歩―― いや半歩にすら満たない短い距離を縮めてきた。助け起こしてもらったせいで元々近かった距離は、鼻先が触れ合うほど近くなっていた。もう十分すぎるほど近い距離を、冬真はさらに詰める。もうすぐ唇が触れる。
「―― 怒るぞ。冬真」
昴は彼を突き飛ばすでも、ひっぱたくでもなく、声だけで止めた。冬真は止まった。
「冗談だよ。…… ごめんって」
怒んなよ、と笑いながら冬真が言って、昴の髪をかきまぜようと手を伸ばしてきたので、今度は容赦なく払い落とす。彼の言葉を無視して歩き出した昴を追うように、冬真が後ろをついてくる。
「別にさ、どっちでもいいんじゃない。したかしてないかなんて」
「は?」
相談内容を丸ごと覆すような意見に昴は思わず幼馴染を振り返る。先ほど冬真が起こした行動の余韻か眉間に皺を寄せている彼に、冬真は「だってさ」と白い息を吐き出しながら口を開く。
「したにしろ、してないにしろ、そんだけお前があの人を意識してるってことだろ。酔って覚えてないんなら無意識下での行動なんだろうし、万が一夢かなんかだとして、意識してるから見たんだろうし。違う? 俺にはそう見えるけど」
もっともな意見だった。何も言い返せないでいる昴の前で、冬真はさらに続ける。
「その人だって、仮に嫌だったとか気にしてなかったとしてさ。それならやっぱり何もないって言うだろうし。ありきたりな答えになるけど、結局昴が今どう思ってるかじゃん」
「…… どうって?」
いつになく熱のこもった声で言う彼に、昴は聞き返す。冬真は足元の雪に視線を落としながら、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「昴が、あるいは相手の人がなかったことにしたいんなら、………… もう、そういうことなんじゃない」
冬真とこんな話をするのは初めてだった。中学の時くらいから他校の生徒に告白されているのをよく噂で聞いているが、本人は自慢するどころか相談すらしないので昴はあまり詳しくない。多分鷹弘や千晶もそうだろう。
「…… さすがモテる人は言うことが違うわ」
「お前ちょっと馬鹿にしてるだろ」
適当に感想を述べると冬真が眉間に皺を寄せながら言うので、素直に「うん」と頷けば、今度こそ髪をくしゃくしゃにされた。
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