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12.slip,slip,slip②

 この家の正月は、なんだか静かになった。姉の明里は数年前に結婚して滅多に帰ってこなくなったし、弟の流星はこのところ年上の彼女の家に入り浸っている。昴はテレビでやっている駅伝をを横目にマフラーを巻いてコートを羽織った。  雪がちらほら降っているが傘を差すほどじゃない。ダウンジャケットのフードをかぶり、足首を覆うブーツで白く覆われた地面を踏みつける。がりがりに凍った雪の上からふわふわの雪が降り積もって、滑りやすい箇所もわかりにくくなっている。しばらく歩いてから杖代わりに傘があった方がよかったかもしれないと思うが、もう戻るのも面倒だ。  歩道が整備されていそうな商店街の方から千晶の家へ向かうことにする。ある程度除雪され地面が見えていることに安堵しつつアーケードの下を進んでいると、反対側の歩道を走る人影が目に入る。この時間にこんな場所を、よりによって雪道を走るなんて危ないな、などと思って数秒眺め、その人影が近づいてくるにつれ、昴はそれがよく知った人物であると知る。 「―― ほ…… 北斗さ―― 北斗さん!」  ただならない様子に急いで呼びかけるが彼は足を止めない。昴は考えるより先に車道を突っ切っていた。車が来なかったのは幸いだ。 「北斗さん待って、北ッ……」  思ったよりもすぐに追いついて腕をとらえたと同時に目の前の体がこちらへ向かって倒れた。それを反射で支えようと一歩踏み出したその足が、勢いよく滑る。そこで気づいた。つい先日、同じように滑ったのと同じ場所だ。 「うっ……」  ただひとつ違うのは、北斗をかばおうとして思いきり尻餅をついたことだった。臀部を殴打した痛みにうめくと、はっとしたように北斗が振り返ってくる。 「ごめんなさ――」  とその時、北斗の手元でぱきんと何かが割れるような音がした。あ、と呟く北斗の左手の下には短く折れた木の枝がある。北斗が手を持ち上げると手のひらからつうっと赤いものが流れるのが見える。 「来て!」  北斗の腕をつかんでなかば強引に立たせると昴は、コンビニへと向かった。 *  あとから考えれば、家の方が何倍も近かったし、そもそも彼も自分なんかに手当てされるほど子どもじゃない。でもどうしても放っておけなくて―― 放っておきたくなくて、気づけば手を引いていた。  だって、あそこで手を取らなきゃ、本当に部外者になってしまうような気がした。  コンビニで消毒液と絆創膏を買って、北斗にはトイレで傷口を洗わせておく。北斗はこの寒いのにセーターたったの一枚と随分薄着だった。コートどころかマフラーすら身につけていない。見ているだけで寒そうだ。昴は自分の着ていたダウンコートを脱いで北斗の肩にかけた。すると北斗が驚いてこちらを振り仰ぐ。 「…… 俺、厚着してるので」  着てくださいと一方的に告げると北斗は、すみません、と申し訳なさそうに謝った。  厚着してるなんて嘘だ。本格的に降りだした雪で本当は死ぬほど寒いけど、このまま部外者になってしまうよりずっとましだった。この人のことが、好き、なんだろうか。  無言のまま、寒さに震える手を抑えながら彼の手のひらに木の棘が刺さっていやしないか見分し、ことさら丁寧に消毒した。他人の体であるせいか、妙に慎重になってしまう。手を開いた時にきつくないよう、逆に閉じた時に緩まないように絆創膏を貼ると北斗は「ありがとうございます」と礼を言った。 「すみません。ここまでしてもらって」 「いえ、俺が無理やり引き留めたせいだと思うので…… 他に痛い所ないですか?」  北斗は無言で頷き、目元を押さえた。 「…… っ、ごめんなさい。…… なんでも」  何でもないということはないだろう。北斗の目は赤く、目尻に涙の痕ができている。数日前、北斗にキスをした少し前の記憶が芋づる式に思い出される。フラれてしまいました、と、北斗はそう言った気がする。あれが、昴にとって都合のいい夢でなければ。 「…… 例の…… 『好きな人』と、何かありました?」  なかば無意識に尋ねた昴の前で、北斗は手の甲で目尻をぐいと拭った。 「…… 何も。びっくりするほど、何もないんです。過去にすらさせてもらえないし、僕も未練がましく何年もずるずると……」  そこまで言って、北斗はまた涙がこみあげてきたのかうつむいた。そしてまた、すみません、と謝罪する。 「子どもみたいですよね。思い通りにならなくて、感情的になって、泣いて、そのうえ人に迷惑までかけて」  相手を責めるふうならまだよかった。  自分を責め始めた北斗の前で、昴はゆっくりと口を開く。 「…… そんなに…… そこまで、大好きな人にフラれてしまったら、そんなの…… 俺だって泣きたくなるほど悲しいですけど」  たった今役目を果たした消毒液と絆創膏の箱を手の中でもてあそびながら言う。お互いうつむいているせいで、相手の顔はよく見えない。 「あと、俺北斗さんのこと好きなので、迷惑とかは全然思わないですけど…… あ、これ使ってください」 「あ、お金……」  絆創膏と消毒液の入ったビニール袋を差し出されて北斗は自分のポケットに手を伸ばすが、そこにはなにもない。どころかスマホすらなくて、吹雪の家にすべて置いてきてしまったのだと思い至る。 「いいですよ。この前奢ってもらったし」 「すみません、ほんとに……」  なんだか情けなくなってくる。せめてコートを返そうと手をかけるが、それも遮られる。 「それも着てってください。俺の家すぐそこだし、北斗さんの家ここからけっこうあるし………… もしかしてそれ煙草臭いですか」 「いやっ、そんなことは……!」  一変して不安気な顔になった昴に慌てて言い返せば、コートを返す言い訳がなくなってしまう。昴は北斗に血が滲んだら絆創膏を取り替えて、膿んだり痛みが引かないようであれば病院に行くよう伝えながら通りの方へ出た。 「コート、できるだけすぐ返しますね」 「代わりがあるので、いつでもいいです」  また申し訳なさそうに言ってきた北斗に返すと、「じゃあ、近いうちに連絡します」と彼は言って、そして別れた。  自分のコートを着た彼の後ろ姿を見送ってから昴は激しくなった雪と風に急いで本来向かっていた千晶の家に向かった。 (…… 踏み込むようなこと聞いちゃったな)  聞いたところで、別に彼と相手の人との間にあった「何か」の当事者になれるわけでもないのに。当たり前だが、どうがんばってもその、何かがあった世界の中に自分はいなくて。…… 多分、彼の世界の、人生の、未来の、過去の、どこにも昴はいなくて、無理矢理何か名前をつけるなら知り合い以上の何でもなくて。せめて傷ついても、傷つけられてでも、その人になれたら。そうしたら、自分は――。 (いや、ていうか俺あの人に好きとか言ってないか)  言った。確かに言った。どうしよう。合わせる顔がない。  昴はその翌日から徐々に体調を崩し、数日後にはしっかりと熱を出して寝込んだ。

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