15 / 18

15.untracked snow①

 北斗は片親家庭らしい。  そんな話を聞いたのは転入してきてすぐのことだった。北斗から聞いたのではない。北斗は優等生だった。担任の期待に応えて自分を気にかける姿を見て難儀な性質だと哀れに思ったし苛々もした。そんな相手に癒されている自分も自分だった。  どれだけ抱きしめ合っても、どれだけそばにいても。むしろ近づけば近づくほど体の中心にぽっかりと空いた穴の存在を意識させられるようで。  寂しい。  寂しい。  それは、果てのない雪原をひたすら歩かされるかのようだった。右も左も景色は変わらない。振り返ってもあるのは己の足跡のみ。靴の中は雪まみれで、足の感覚などとっくになくなっていた。  体の中心に空いた穴を冷気が吹き抜けて、凍えそうなほど寒いのに眠ることは許されない。  喜びが一瞬なら、苦しみは永遠だ。  それでもそれがほかでもない彼から与えられるものであるなら。 (俺は、後者が欲しい) * 「君はいつも急すぎるよ」  叔母の住むマンションは高校卒業後に吹雪が出て行った時のままだった。叔母の小言にごめんと一言謝りつつ吹雪はリビングのソファに腰かけた。叔母は部屋の隅に置かれた数個しかない段ボールを一瞥して一回りしか離れていない甥を振り返る。 「持ち物これで全部? ベッドとかは」 「捨てた。引っ越し先に合うやつまた買えばいいかと思って」  吹雪がテレビを見ながら言って、叔母は少しの間をおいて「あ、そう……」と口にした。 「ごめんね、買ってもらったのに」 「それは構わないけど。…… 君、あのベッド気に入ってるみたいだったのに」  缶ビールを持って隣に腰を下ろした叔母から吹雪は目を逸らした。 「…… そりゃ、叔母さんに買っていただいたものですから」 「何も出ないよ」 「出ないかぁ」  笑いながら吹雪は煙草を手に立ち上がった。ベランダに出ようとカーテンに手をかけたその背に、「吹雪」と声をかけられる。 「何かあった?」 「…………」  中途半端に開いた戸から、真冬の冷気が吹きこんでくる。凍るような風を追うように吹雪は振り返って叔母を見た。 「………… 失恋しちゃって…………」  口にした瞬間彼女の顔がこわばる。と同時に、吹雪はくしゃりと笑ってみせた。 「―― なんつって」  彼女の反応から逃げるようにベランダに出ると下の方で車の音がした。もう深夜に近い時間であるのにこの住宅街を車が通りがかるのは珍しい。車はマンションの真下に停まる。よく見るとタクシーだ。降りてくる人影を見た瞬間、吹雪は部屋に戻った。 「ちょっと出てくる」 「え? 出てくるって」 「あと車貸して!」  ばたばたとリビングを駆け抜ける甥に気圧されながら言う叔母の声を背中に受けながら、吹雪は玄関に出る。靴を履く間ももどかしい。  あれは確かに北斗だった。階段を駆け下りる自分の足が、もっと速く動かないものかと苛立つ。ばしゃばしゃと消雪パイプの水で湿った雪を跳ねさせる音が近づいてくる。自分の足元で、それとまったく同じような音がする頃、彼は吹雪の目の前にいた。 「…… 吹雪」  彼の口が、自分の名前を口にした。 「…… 北斗」  吹雪も、同じように彼の名を口にした。  お互いしばらく黙って向かい合っていたが、 「…… 車、乗ろう。借りてきたから」  吹雪が言って、ふたりは駐車場へ向かった。 「星、綺麗だね」  叔母の車に辿り着いたあたりで北斗がぽつりと言った。  その言葉に吹雪も顔を上げてみると、街灯に照らされる夜空の隙間に幾粒かの星たちが煌めいていた。めずらしく晴れている空でひときわ輝いているのが、北極星。それほど星に詳しくない吹雪でも、それだけは知っていた。 「―― 吹雪、僕は」 「もう少し」  何か言いかけた北斗の声を遮るように吹雪は言った。 「もう少し、星が見えるところに行こう。せっかくだから」 *  ほんの少し車を走らせて、街灯のほとんどない通りで車を停めた。すぐそばには古い公園があり、公園の名前が書かれていたであろう石板は欠けたり字が掠れていたりで読むことができない。 「オリオン座もよく見えるね」 「どこ? ていうかどんなのだっけオリオン座って」 「ほらあそこ。みっつ繋がってるやつ」  夜空に人差し指を向けた北斗はそのまま指を横へ動かした。 「あれが北極星で」 「それはわかる。あとは?」 「あっちにあるのがシリウスで――、…………」  ふと、北斗は指を下ろして横に立つ男を見た。以前と変わらず、整った横顔がそこにある。 「吹雪が好きだよ」  今度は止められなかった。男は一度、ゆっくりとまばたきをした。 「俺も北斗が好きだよ」  その言葉は、すとんという奇妙な安定感を持った音を立てて、北斗の胸に落ちた。自身の中身に釣り合わない告白も、それに伴う交際も、どうしても自分のことのようには思えなかった。それなのに今、吹雪に言われたひとことがはっきりとした現実味を帯びて胸の中に落ちていくのが、不思議に思えてしょうがない。  隣では吹雪が、言葉ではどうにも表現しにくいような笑みを浮かべていた。 「…… すごいね、なんか…… なんか」  嬉しい、とも、悲しい、とも違う。しかし、喜んでいるようにも、怒っているようにも見えた。 「…… 好きな人に好きって言ってもらうのって、両想いなのってこんなに嬉しいんだね」 「………… ずっとそうだったよ」  静かに呟くように北斗が返すと、吹雪もまたささやくような小さな声で「うん」と呟いた。 「そうだね。…… そうだったね」  除雪されたばかりなのか、それほど積もっていないまっさらな雪の上を吹雪がそっと踏みしめると、ぎゅっと独特の音がした。 「もっと早く聞いておけばよかったな」  すぐそばで、北斗がわずかに笑ったような気配がした。しただけかもしれない。 「…… 転校して最初に仲良くなったのが北斗でよかった。俺多分、北斗じゃなきゃ自分が寂しいことにすらずっと気づかないままだったよ」 「…… 別れ話みたいなこと言うね」 「付き合ってないけど」 「付き合ってないけどね」  顔を見合わせて笑い合うのなんて、今まで何十回とやってきたはずなのに今はなんだかまるで恋人同士のそれのように思える。 「…… 僕はずっと、そのことにすら気づいてなかったよ。…… ずっと、寂しいのは僕の方だったのに。そばにいてもらったのは、僕の方なのに」  北斗はそれから長い息を吐き出して、覚悟するように短く吸った。 「今までたくさん、君を傷つけてきたのだと思う。僕は……」  言わなければならない、次の言葉が出てこない。こぶしを握りしめる北斗の目の前におもむろに手が差し出される。 「握手」 「…… 何の?」  吹雪は答えない。  北斗は自分と彼の間に置かれた手を見た。  この手を取れば、もう二度と元には戻らないような気がして。 「本当に別れ話みたいだ。こんなの」  自分でもびっくりするほど、駄々っ子のような声が出て、吹雪が可笑しそうに笑った。薄い唇から白い気体が漏れ出て消えていく。 「好き同士じゃなきゃできないよ」  彼のからかうような口調はいつも通りのようで、けれどどこかいつもとは違った。  差し出された手をつかんだ。骨ばった厚みのない手を、縋るようにぎゅっと握り込む。それから目をぎゅっとつむった。全身の、どこかひとつでも力を抜いたら最後、涙が止まらなくなりそうだった。握りしめた手の中にある彼の指が、そっと抜け出して北斗の手の甲を撫でた。 「…… 北斗が好きだよ」 「さっき聞いた」 「うん。でも、言わせて」 「…… 君はずるい」 「うん」  ごめんね。  吹雪が謝りながら手を離す。 「―――― っ」  北斗は思わず顔を上げた。寒さで感覚のなくなった頬を熱い何かが横切った。視界がぼやけて、吹雪の顔さえもよく見えない。  吹雪が好きで。彼の孤独を自分が癒せたらどんなにいいだろうと思った。けれど、彼どころか、自分のことさえも救えない、癒されることはないのだと思うと、唯々たまらなかった。 「帰ろうか」

ともだちにシェアしよう!