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1.焔-4

 光。  ぼんやりと、いくつもの火が尾を引いていた。  いつの間にか中庭に現れた鬼火の群れは、淡く青白い光を放ち、枯れ草の間を、上を、焦がすこともなく行き交っている。  目が釘付けになる。  それなりの数のケジを見てきた。人をたぶらかすと言われるものも多くあった。  それらに比べれば、取り立てて不気味でも、息を呑むほど完成されて美しくもない。しかし、眼前のそれらには、確かに目を惹く何かがあった。  人の営み、その隣に巣食う異界の匂い。  く、と喉が鳴った。脳が奥底からすっと軽くなっていく。手が無意識に筆を選んでいたことを、指先の感覚からやっと知る。 「おい?」  訝るようなサマリサの声が随分遠くに聞こえた。視界にはすでに、火の群れと紙以外には何も映っていない。  描きたい。興だとか仕事だとかではない。ただ、光景に迫られている。これほどの衝動は久しぶりだ。  既に紙や墨の準備を整えていて幸いした。  水を含ませた筆を走らす。薄墨がほの白い紙面に陰影を彩っていく。たゆたう光が一つ、また一つと、乾いた繊維の網に写し取られる。  絵師と名乗ってはいるが、それに相応しい者ではないという自覚はある。師についているわけでも、技巧を磨いているわけでもない。美学や哲学も持ち合わせてはいない。食べていけているのは絵の美しさではなく、ケジを封じるという技能によるのだから、生業としては術師によほど近いだろう。  けれど、私には他に何もないから、そう名乗る以外に思いつかなかった。  私は特にケジを目にすると、恐慌にも似た興奮と渇望を覚える。描かずにいるとどうしても落ち着かないのだ。衝動に従って筆を揮う時、最も生きている実感を得られる。  筆を断とうとしたときは、昼夜問わず幻覚を見て、ケジと妄想と現実の区別がつかなくなり、危うく生死の境まで踏み越えるところだった。比喩ではなく、描くことなくしては私は生きていけない。  手を止める。紙の上には、墨一色で書かれた無数の焔が踊っていた。しばしの間座り込んで、色のある現実の火の群れを見つめる。  一抹の期待を抱きながら。  こちらの挙動に呼応するように、鬼火たちは明滅し、薄れていった。同時に、手元の紙がわずかに熱を持つ。ほんの一瞬、紙面が燐光を放ったかと思うとすぐに消え、かすかに墨の艶の増した絵が残った。  眼前にはすっかり暮れて先の見透せない枯れた庭があるばかりで、魂を誘う幽玄の光景はすでになかった。  じわ、と、私の胸に落胆が滲む。こうなることがわかっていて、仕向けていて、それでも熱狂から立ち返ると寂しくなる。  幼少の頃からケジの絵を描いていた。いつしか、理屈は自分でもわからないままに、描いたものを絵の中に誘い込むことができるようになった。当初こそ興奮し、今に至るまで食い扶持を稼ぐのに役立っている能力だが、それが絵をより好きにさせてくれることはなかった。  むしろこうしていると、あの存在たちを(うつつ)から排除し、絵の中にしか留めておけない自分のことが、例えようもなくつまらないものに思えてくる。  描き終えるたびに訪れる矛盾した感情を振り払うように、私は後片付けを始めた。と、背後にたたずんでいたサマリサが、乾かすため床に敷かれたままの鬼火の絵を凝視していることに気がつく。よく光る目はまばたきもせず、ひそめられた眉からも引きつった口元からも、明瞭な感情は読み取れない。 「……どうした?」  私は声をかけたが、返答はなかった。  先ほどまで放っていた敵意は消えていたが、少なくともいい気分というわけではなさそうだ。  彼は鬼火を見物に来たと言っていた。話の信憑性は疑わしいが、仮に真実だったとするなら、眺めるにはあまりにも時間がなかったのかもしれない。  邪魔をさせないと脅したのは私であるし、行動を急き過ぎたことも否めない。一応謝っておくべきだろうか。 「すぐに封じてしまったのはすまなかった。それで、筆を返してほしいんだが」  結局使わなかった絵筆を、サマリサはまだ手に握っていた。相変わらず返事はなく、筆はきつく握られていて無理に奪うのは難しそうだ。筆の柄を指先で軽く引っ張ると、やっとこちらに気がついたかのように見下ろしてきた。  視線がぶつかる。赤毛の男はまばたきを数度繰り返し、ゆっくりと唇を舐めた。 「それを、どうするんだ」  やっと声が聞けたが、やや掠れたそれは返答ではなかった。絵の行く末を訊いているのだろうか。 「報酬と引き換えに依頼人に渡す」  私は簡潔に答えた。 「処遇も依頼人に任せる。大抵は燃やすが、火の絵だから、水に流す方がいいかもしれない」  またも返答がない。聞いているのかいないのか。目だけは変わらずきらきらしていて、穴の空くほどこちらを見つめている。 「聞こえているなら筆を返せ。片付けが進まない」  再度筆を引っ張りながらせっつくと、サマリサはぼそりと呟いた。 「それは、……いいな」 「は?」  思わず聞き返す。と、両の手をぐいと引かれた。気づいた時には、勢いよくひざをついたサマリサの大きな手に、両の手を絵筆ごと握り込まれていた。  絡みついている紐が擦れる。あたたかい感触と息づかい。 「俺を描いてくれないか?」  目を輝かせた男の口から、今度ははっきりと、耳を疑う言葉が飛び出した。

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