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1.焔-5
描け、と、言ったか。
この男は。自分を。
——……なぜ……?
呆気に取られた。即座に逃げるという選択肢さえ思い浮かばなかった。
つい先ほど、床下に突き落とされ、警戒と敵意を剥き出しにしていたというのに。
たった今、描いたものが絵に取り込まれるという怪奇を見せつけられたというのに。
「…………正気か?」
絶句から逃れようとして、やっとそれだけを口にできた。
「正気……」
サマリサは寸の間、言い澱んだ。ちら、と視線を伏せる。腕に絡みつく赤紐を見つめたように思えた。
わずかに傾げた首の筋に影が落ちる。茫漠とした表情の輪郭が薄闇に混ざる。
ぞく、と。唐突に私の身体が芯から震えた。
(…………ッ?)
何だ、今の感覚は。
まるでケジと相対した時のような――?
硬直する私をよそに、サマリサはすぐに視線を上げた。
「正気じゃないかもしれないが、俺は本気だ」
一呼吸おき、言葉を継ぐ。
「俺の姿を描いてくれ。突然、おかしなことを言ってるのはわかってるよ。けど、これを逃したらもうおしまいのような気がするんだ」
「待て、一旦落ち着け」
「対価が要るなら、どうやっても稼ぐ。俺にできることなら何でもやる、だからっ」
「待てと言っている。私は人間は描かない」
真剣な、どこか縋るような眼差しが見る間に失望に変わった。
「……何でだよ?」
「こちらが聞きたい。お前こそなぜ、自分を描けなどと?」
私は困惑していた。
彼の意図を図りかねる。あえて事情に触れずに誤魔化そうとしているようにも思える。
と、ふっと脳裏を思考が掠めた。
私が絵に封じられるのはケジだけだ。ただの生き物や人間を絵の中に取り込むことはできない。
しかしそのことを、彼はまだ知らない。
知らない上での、今の嘆願の意味するところは。
目を細めて見つめると、サマリサはごくりと生唾を飲んだ。
「その……、俺は惚れたんだ。あんたの絵に。本当だよ」
それは描くものが彼自身である理由にはならないのだが。あえて言葉にすることはやめておいた。
「何にせよ、私は人間は描かない」
「俺が人間じゃなかったら、あんたは描くのか?」
「そうは――」
見えない、とは言い切れなかった。
経験と知識の上では、彼は恐らく人間だ。
珍妙な身なりと行動だが、脈や息はある。ケジに特有の、この世に対する明確な異質の気配がない。
少し火を操ってもいたが、あの程度なら二流の術者にもできることだ。
しかし……。
拭いきれない違和感がある。サマリサへと言うよりは、私自身の感覚へのだ。
彼を人間だとするならば、先程の一瞬の、腹の底から湧き上がるような興奮は何だ?
私はそのまま、何も答えることができなかった。
「……お互い、話さないことがあるのは当然、か。初対面だもんな」
訪れた何度目かの沈黙を破って、サマリサが呟く。
「なぁ、テンキ、……だったよな?」
「何だ」
「あんた、見たとこ、旅をしてるんだろ。俺も一緒に連れて行ってくれないか?」
またしても予想外の提案だった。
「頼む。荷だって背負うし、野盗への盾に使ってもいい。せめてもう少しだけ、あんたの絵を見たいんだ」
断る。返答は反射的に、喉まで出かかっていた。
間際で飲み込んだのは何のせいだっただろう。
これまでの依頼人たちと違い、絵を全く恐れなかったせいか。
この世ならぬものと対峙した後で、無謀な高揚感が残っていたせいか。
彼のすり切れた衣服が、初春の夜にはたいそう肌寒く見えて、自分の身まで冷えた心地になったせいだろうか。
(……「これを逃したら、もうおしまいのような気がする」、か)
きらきらした赤い瞳が所在なげに揺れている。
今振り切ったら、私の疑念は、この男は、どうなるのだろう。
薄暗い予感の中に溶けてしまうのではないか。
私は、ふ、と息を吐いた。
「荷物持ちも用心棒も、私一人で間に合っている」
サマリサの気迫がみるみるうちに萎む。がっくりと肩を落とす様は憐れを誘う。
「…………どうしても、だめか」
「お前はまず自分の面倒を見ることだ。せめて身なりを整えろ」
しょげかえった肩に、私の羽織を被せた。
私よりも体格がいいので、大分窮屈だろうが。
「へっ……、何……?」
「同道なら勝手にすればいい。風邪でも引いたら、ためらわず置いていく」
「……!」
サマリサは子どものように顔をほころばせ、片手でぐっと羽織の胸元を掴んだ。
黒地の布がくしゃりと握られ、赤い紐の纏いつく手が隠れる。先ほど墨に吸われた鬼火を思い起こした。
我ながら無警戒なことをしたと思う。彼の正体も目的も、一つとして知れていない。不安を覚えて然るべきはずだ。
それなのに、彼の肌が風の冷たさに触れなくなった様を見て、——なぜか、懐かしいような安堵を感じた。
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