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2.蜃-2
さわさわと浜を渡る風と共に歌が流れてくる。歌詞はなく、鈴を転がすような響きの旋律だけだ。男とも女ともつかない、透き通った声。私は引き寄せられるように歌の聞こえる方へ歩みを進めた。
足場の悪い坂を上ると、鼻をくすぐる潮の匂いが強くなった。数十歩も歩かないうちに、開けた場所に出る。
少し遠くに、今立つ場所から地続きになっている崖が見えた。その端近く、海と既に沈んだ夕陽の光を背にして、一つの人影が浮かび上がっていた。
少女……少年……。いや、やはり少女だろうか。人影は比較的小柄だった。
遠く薄暗いために輪郭しか見えないが、よくある海辺の民の服装に見える。傍らに一抱えほどの籠が置かれている。何か作業をしているのだろうか。こんな時刻に、崖の上で?
と、歌が止んだ。人影が身じろぐ。こちらに気がついたようだ。
「だ れ?」
歌そのままの調子の声に尋ねられた。柔らかく、つかみ所のない響き。答えようとして、意図せず言葉を飲み込んだ。
(……?)
辺りの景色がゆらめいているような気がしたのだ。
水平線が歪む。波が瞬く。雲の筋がぼやける。表情の見えない、人影が、揺らぐ。
全身を動悸が襲った。
今目にしているものは、この世のものではない。常ならぬ世界の景色だと、本能が叫んでいる。
思わず一歩進み出つつ、私は口を開いた。
「あなたは……」
「おーい、テンキー?」
ここしばらくで聞き慣れた声。振り返ると、坂の下からサマリサが手を振りながら近づいてくるところだった。
「いたいた、こんなとこに」
ふっと、いつの間にか張り詰めていた不穏の気配が薄れる。慌てて再び振り返ると、人影は姿を消していた。傍らにあったはずの荷物も消えている。はじめから何もいなかったかのように。
崖の向こうには、だんだんと闇を濃くしていく、逢魔が時の空だけが広がっていた。
一体、どこへ。今の一瞬で。
立ち尽くしている間に、サマリサは坂を登りきっていた。
「景色を見てたのか? 綺麗な海だなぁ」
彼は人影を見なかったらしい。のんきに伸びをしている。
「とは言え、やっぱ風強いな。突っ立ってると冷えるぞ」
「ああ……」
今のは、何だったのだろう。人だとしたら話を聞いてみたかった。そう思いつつ、サマリサに向き直る。
「わざわざ探しに来たのか?」
「そうそう、ここの村人が呼んでるんだよ。あんたに話があるって」
「話」
首を傾げると、サマリサは眉を下げつつ頭をかいた。
「俺もまだわかんないんだけどさ。ここに着いたときに、あんたがほら、絵師だって話をしただろ? それで小屋まで訪ねてきたらしいんだ。だからまぁ、何か依頼があるんじゃないか?」
この時間だし、もしかしたら今日はそのまま泊めてくれるかもな。そう言ってサマリサは笑う。
「そうか。ご苦労だった、すぐに向かう」
そう答え、歩き始めながらも、先ほどの動悸はまだ心に引っかかっていた。
この土地には、何かある。厄介な仕事を受けることになるかもしれない。
サマリサを巻き込まないとも限らない……とまで考えて、ごく自然に隣を歩く彼のことを案じている自分に気がついた。脳内でかぶりを振りつつ、暮れかけた坂を急ぐ。
不意の出来事だった。
踏み出そうとした足下の地面が、突如、消えた。
「っ!?」
今まさに進もうとしていた斜面に、漆黒の大穴が口を開けている。
咄嗟に後ずさろうとして、――体勢を崩した。
小石でも踏みつけたのか、足下ががくんとずれる感覚。視界が傾く。
(落ち――……!?)
ぐい、と、隣に力強く引き寄せられた。転びかけた私を、サマリサが抱きとめたのだ。
「あっ……ぶな」
「……今」
私はすぐに、今見たものを確かめようとした。しかし、足下は何の変哲もない、礫 の多い土だ。
崩落の跡などどこにも見当たらない。
薄暗い道に目をこらしていると、すぐ耳元で声がした。
「……テンキ? あの、服」
「うん?」
声をかけられてやっと、まだサマリサに支えられたままだったことに気づく。
咄嗟に服を掴んでそのままでいたせいで、抱きとめたまま体勢を変えられなかったらしい。温かい体温。早い鼓動。少し煙の匂いがする。きらきらした瞳が、目と鼻の先にある。
ぱっと服を離した。
「すまない。助かった」
「い、いや、俺はいいんだけど。あんた、本当に具合は大丈夫か?」
心なしかうわずった声を出したサマリサは、心配を全面に貼り付けた表情で私の顔をのぞき込んだ。
めまいで転んだとでも思っているらしい。
その態度に、やっと思い至る。
(今の光景、見えていなかったのか)
「無理するくらいなら、依頼は断ったほうがいいんじゃないか?」
「……問題ない。それに、こちらからも話を聞きたいことがある」
この浜には明らかに何かがある。それは、先ほどの歌う人影とも関わりがあるという確信があった。
先ほどの影を見たときに感じた、悪寒にも興奮にも似た動悸は、普段ケジに感じるものとよく似ていた。――先日、サマリサに感じたものとも。
もしも光景そのものが異界のものだったなら、絵に描いて封じるだけだ。しかし、もし人影そのものに動悸を感じていたのなら、彼……あるいは彼女は、私の疑問を解消する手がかりとなる可能性がある。
人間以外にしか働かないはずの感覚が、なぜ人に反応したのか。
このしばらくの旅路では、その疑問が晴れることはなかったのだ。
小屋に戻ると、入り口に先ほどの旅人たちの中にはいなかった人物が立っていた。
私を呼んだという、村の者だろう。滞留の許可を得た際に会った気がする。
「テンキ殿」
海の男らしく年を食ってなお精悍な村人は、慇懃に頭を下げた。しかし、姿勢を戻した後の視線からは、品定めするような疑念を感じた。生業上、慣れたものではある。
「頼みたいことがある。村まで来てくれるか」
「うかがいましょう」
ふと気がついて、一言付け加えた。
「連れも一緒でよいのなら、ですが」
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