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2.蜃-4
磯の香で目が覚めた。身じろぎをしようとして、重さに気がつく。何かが胸の上に落ちている。
「……? ……ああ」
確かめるまでもなく、感触と状況から、すぐにサマリサの腕だとわかった。しばらく旅路を共にしてわかったことだが、彼は寝相があまり良くない。
泊めてもらった、暗い小屋の中。だんだんと視界ははっきりしてきたが、頭は寝起きでぼうっとする。起き上がる気にもならず、私はそのまま眠るサマリサの顔を眺めた。相変わらず呆れるほど整った顔だ。出会った頃と比べるとだいぶ血色も良くなった。惜しいことには、悪夢でも見ているのだろうか、眉間にしわが寄っている。
腕を伸ばし、軽く眉間を揉んでみる。んん、と小さく呻いたが、起きることはなかった。戸の隙間から漏れる明かりの頼りなさから察するに、外はまだまだ暗いようだ。寝かせておいても良いだろう。
覆い被さっていた腕をそっと退け、なるべく静かに身を起こす。身体を包んでいた熱が振り払われ、代わってすっきりする朝の冷気を感じた。軋む戸を押して外へ出る。柔らかな未明の光を浴びる。
空はまだ明けてもおらず、薄紫と桜貝色の混じった薄布を水平線の上に広げていた。風はないが、身にしみるような寒さだ。空気を満たす潮騒が耳に心地良い。覚め切らない夢のような景色の中を歩く。
と、波音に混じって微かな声を聴いた。
「……なの影が……て……」
「崖には……から……かないように……」
少し遠くに薄ぼんやりした二人の人影を見た。こちらに気がついたらしく、手を振っている。
近づくにつれ、立っているのがキギスと少年だとわかった。なんだか昨日も似たようなことがあったと思いつつ、顔がわかる距離まで来ると、二人からニコニコと声をかけられる。
「早いな、魔法使いさん」
「魔法使いのおじちゃん、よく眠れた?」
「その呼び方はやめてください…………おじちゃんはともかく」
「そっちはいいの?」
少年は昨晩、不思議なものを見たと話していた子供だった。
「君は昨日の」
「うん、僕。おじちゃんは僕がみたもの、信じてくれるんだよね?」
「勿論。もっと話を聞きたいくらいだ」
「えー、でも、きのう言ったことでぜんぶだよ。地面がゆらゆらして、船がへんなの。僕はまだ沖には行かれないから、マツの島はみたことないし」
子供はふと所在なさげな顔をする。
「キギスねえちゃん、きのうはごめんなさい。秘密って言ったのに。おじちゃんが訊いてくれてうれしくて」
「いいんだよ。どの道わかってたことなんだ」
キギスは子供の頭をぽんぽんと撫でた。
「さ、早く帰りなよ。またお母に心配されるぞ」
「うん。ねえちゃん、おじちゃんも、気をつけてな」
子供はぱたぱたと村の方へ駆けていく。
「あの子は一体?」
「村の子。眠れないって言うからお喋りしてた。前から仲良かったけど、最近は特に面倒見てんだ」
キギスは少し声の調子を落とした。
「帰ってこなかったの、あの子の父親」
「……件の失踪した船、か」
遠い波は穏やかだ。どれほど速い潮があるのかも、どんな怪奇を隠しているのかも、ここからは全くわからない。
「村の皆、気を尖らせてるけどさ、悪く思わないでくれな。ただわからねえだけなんだ、何が起こってるのか。だから、皆と違うものを見る、あの子やおれを怪しんでる……、と言うより、気味悪がってる。ワタリ様がいてくれたらなぁ」
「ワタリ様?」
「おれの面倒見てくれてたばあちゃんだ。不思議なことに詳しくって、村の皆からも尊敬されてた」
キギスの表情がほころぶ。ワタリ様という人物を、彼女も相当慕っていたらしい。
「もう頼りがいないというのは、そういうことか。もとは術師がいたんだな」
「そうさ。でも、数年前に。歳だったしな」
ふと私達は顔を見合わせた。お互いに探るような目をしているのがわかる。
「聞きたいことがまだあるって顔だな」
「知っていることがまだある顔をしているからな。……昨日の歌声はあなただろう」
「——ああ、見てたの、やっぱりテンキさんだったんだ。そんな気はしたんだよな」
昨晩の時点で疑ってはいたが、やはりそうだった。歌う彼女を見た時に感じた、背筋の震えを思い出す。この世のものでない気配を感じたのは、彼女の持つ力がそうだったからなのだろうか。
「あの子と、あんたは見たんだろ? 陸の景色が歪むの。あれは、おれの歌のせいだよ。おれが歌う時にだけ起こるんだ」
「危うく歪みに落ちかけた」
「えっ、そりゃ悪かった。怪我とかなかったか?」
「あぁ、大丈夫だ」
キギスは安堵のため息を吐いた。
「……と言っても、全部が全部、おれのせいってわけじゃねえ。言い訳みたいだけどさ、こんなことが起こるようになったのは、ほんとに最近なんだ」
彼女はゆっくりと両腕を広げ、深呼吸した。
「おかしいのはおれじゃなく、この浜の方なんだって思ってる。——証拠はないけど、感じるんだ。あんたにはわかるか?」
広げた手をぶんぶんと振る。私が軽く頷くと、またほっとした表情を浮かべた。
「皆の疑いも、たしかに全く根っこがないってわけじゃねえよ。でも、おれは……皆が思うより……」
キギスは海の向こうを見つめる。明け始めた空に染められて、その頬はうすく紫がかって見えた。
「――皆が思ってるくらいの力が、本当にあればいいのにな」
「はよー、テンキ。寒くないか? あ、キギスさんも」
「寒い」
サマリサが能天気に歩いてくる。私はその腕と胴の間に両手を突っ込んだ。冷えた指先が温められていく。
「ひゃっ、いきなり何だ!?」
「そこそこ暖かい」
「確かに冷えるけどさ、抱きついて暖を取るなよな、人前で」
「今朝はお前がこうしていた」
「なんっ!?」
正確には腕が乗っていただけが、暖を取られていたことに変わりはないだろう。サマリサはなぜか頬を少し赤らめながらも、手を振りほどきはしなかった。
「俺が言うのもなんだけどさ。あんた、もう少し距離を考えた方がいいぜ。ケジでも、人でも、色んなものに」
「? 不審なものには人一倍警戒しているが」
「……信頼されてるんだか、警戒心がないんだかわからないんだよな」
「お二人さん、仲がいいんだな」
キギスがけらけらと笑った。
「この空模様なら船出にはちょうどよさそうだ。テンキさん、けっこう波飛沫が立つと思うから、濡れて困るようなものには気をつけてくれよ。絵師さんならそういう持ち物も多いだろ?」
「心得た」
「よっし、じゃ、飯にしたら出立だね」
キギスはぱんと手を叩いた。
用意された船は三人が乗り込むのにちょうど良い大きさだった。キギスの操る櫂の巧みさゆえか、思ったよりも揺れず、波の上を軽やかに進んでいく。
きらきらと魚の鱗のように光る波に負けず、サマリサは珍しい景色に目を輝かせ、興奮した様子で話しかけてくる。話題は海のことから魚のこと、村のことから私の絵のことへと移っていった。
「なんだかんだ、描くのをちゃんと目の前で見るのはこれで二度目だ。楽しみだぜ」
「そうか」
「やっぱり描いた絵は処分しちまうのか?」
「村の人々が望むなら、そうする。大抵はそうだ」
「なんか悲しいな。せっかくあんなに綺麗に描いてもらえるのにさ」
褒められるのは嬉しいものの、同時にちくりと胸にささくれ立つ何かを感じた。例えるなら、罪悪感に近いもの。
「残しておくよう頼んだりしないのか? すごく上手く描けた時とかさ」
「処遇を決めるのはケジと向き合う人々だ」
「そっか。勿体無いな、ほんとに」
サマリサは本当に残念そうな顔をする。また胸の奥が小さく疼いた。
「——それほどいいものでは、ない」
気がつけばそんな言葉がこぼれていた。
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