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2.蜃-5

 サマリサは一瞬、ぽかんとした。何を言っているのかわからないといった顔だ。 「私の絵は、いいものでは決してない」  私は繰り返した。寸の間動きを止めていたサマリサが、慌てたように身を乗り出す。 「そんなことない、あんたの絵はすごく、きれいで」 「美しいだろうな。夢を描いているのだから」  だからこそ、罪深いことなのだ。 「夢、まぼろし。本質のない、人の感覚を惑わせるだけのもの。そういうものに、生き生きと動いていたものを封じ込める。たった一枚の絵に、ほんの僅かな瞬間を見つめただけで」  なぜだろう。心臓が縮み、だんだんと冷えていくようだ。  ずっと胸につかえていたことだった。これまで出会ってきたケジたちの姿に、心の底から惚れ込んでいたからこそ感じずにはいられなかった、己の業。もし魂というものがあるのなら、ケジたちのそれを(はりつけ)にして、標本にしてしまうような行為。   「それは命を奪うのと同じこと。残酷で、身勝手なことだ」  サマリサはただ絵の腕を誉めただけだとわかっている。それは嬉しいことであるはずなのに。彼を困らせたいわけではないのに。他人の前だというのに。  なのに、棘のある言葉が溢れて止まらない。 「この世に存在を厭い、たった一枚の幻想に姿を決めつけて、誇張した美しさで騙して閉じ込め、それを燃やす咎さえも人に押し付ける……」 「それでも、俺は悪いだけとは思わない。僅かな時間って言ったって、その間、あんなに真摯にケジを見てやる奴はあんたの他にいないぜ」  サマリサは弱ったように眉尻を下げている。目を合わせていられず、私は顔を背けた。 「真摯などではない。逃げているんだ」  そう吐き捨てた。胃の奥あたりがじくじくと疼き始める。 「安らぎを得るため。見えないものを見えるものに描き表して混乱を整理し、恐怖を紛らわす。全て自分のためだ。碌なものではない。私は……」 「テンキ!」  強くなった口調に驚いて振り向くと、サマリサがこちらに向かって手を伸ばすところだった。思わず身構えたのにも構わず、私の腕をそっと掴む。 「もうやめとけ」  静かな声音だった。怒っているわけではない。ただ、努めてこちらを落ち着かせようとする声。 「それが考えって言うなら何も言わないけどさ。そうじゃないだろ? 今のあんたは、どちらかというと苦しそうに見える」 「……」 「俺、何か悪いことを言っちまったのか? なぁ、テンキ、急にどうしたんだよ?」  自分でもわからない。ただ、強烈に不安なのだ。身のすくむような、自分の居場所がわからなくなるような——    ――不安?  落ち着かなさのもとになるような、何かがある? 「テンキ?」  無性に嫌な予感がして、私は周囲を見回した。一面の濃紺の波。おかしなものは――  ずん、と船に衝撃が走った。 「っ!?」 「うおっと、何だ!?」  震動で体勢を崩した私は、掴まれたままの手に引っ張られるようにしてサマリサの上に倒れ込んでしまった。急いで起き上がろうとした瞬間、またも突き上げるように大きく揺れ、再び腕の中に抱き込まれる。船は一瞬わずかに浮き上がり、着水した。派手に飛沫が上がり、びしゃびしゃと服を濡らす。 「おい、あれ……!」  顔をひきつらせたサマリサは、すぐそばの水面を凝視している。 「……!」  は魚影にも似ていた。  鮫か、鯨か? いや、それにしてはあまりに大きすぎる。端から端までの長さがわからない……、いや、そもそも決まった長さなどあるのだろうか?  潮の流れそのものにも思える、巨大な影が、船の下をゆっくりと通っていく。  私は抱きとめられたまま、その様を呆然と眺めた。緊張しているのか、サマリサの腕にぎゅっと力が入るのがわかる。 「やつだ……!」  キギスが小さく呻いた。 「この時間、ここに来ることなんてなかったのに」 「やつって」 「話は後だ、お二人さん、来るぞ!」  鋭い眼光の向く先を振り返る。眼前には既に、黒々と膨れ上がる大波が迫っていた。 「ぐっ……!」  三度目の衝撃。姿勢を直すことも叶わず、私はサマリサにしがみついて耐えた。背に水が降りかかる。  何とか船から振り落とされないまま大波は去った。ようやく身を起こすと、サマリサは私から離した手でぐっしょりと濡れた赤い髪をかき上げた。 「なんなんだこれ、生き物? それとも潮ってこんなんなのか?」 「いや、はこの世のものではない」  巨大な影は相変わらず、船の周囲を巡っている。目の前にしてびりびりと感じる、不安、魅力、吸い込まれるような危うい高揚感。  これも、ケジだ。それも、意思が伝わってこないところを見るに、生物よりも自然現象に近しい種類のモノ。 「白昼堂々、こんなバカでかいのが……。テンキ、なんとかできないのか?」 「無理だ。状況が悪すぎる」  私は短く答えた。相手は大きさも力の強さも、御するのが可能な範囲にはある。しかし、ここは揺れる船の上、しかも私の得物は紙と墨だ。どうやっても絵などまともに描けはしない。 「無理ったって、このままじゃひっくり返されちまうぞ!」 「大丈夫だから、掴まっててくれ!」  キギスは必死に船を操っていた。と、深く息を吸い込み、大きく喉をそらす。その唇が言葉を——いや、旋律を紡ぎ出した。 「……歌……?」  それは夕暮れの浜辺で聴いた歌によく似ていた。あるいは同じものかもしれない。鈴のような、透き通った響き。とても彼女の喉から出るものとは思えないが、それでも事実、キギスは声を張り上げて歌っている。  私はあるものに気がついてサマリサを見やった。 「サマリサ、あれを」  いつの間にか周囲には霧が立ちこめ始めていた。その灰色の向こう側、少し離れた海上に、島の影が現れている。 「まさか、マツの島か? さっきまであんなもんなかったのに」 「あそこに船を着ける! もうちょっと耐えてくれ!」  歌をやめたキギスが再び叫んだ。しかし、その表情に安堵の色は見られない。  島の姿が今にも霧の向こうに隠れようとしている。感覚から察するに、これも普通の霧ではない。潮のケジが引き連れてきた(もや)だろう。 「畜生、よく見えねえ……!」 「任せろ」  サマリサが姿勢を正した。島の方向を見据え、すっと腕を伸ばす。何やら口の中で呟いた。  と、視線の先がぱっと燃え上がった。マツの島に火が点いたのだ。勢いよく燃える炎の明るさは、島が霧の向こうに隠れてもよく見えた。 「明かりの方を目指せ!」 「あんた、すごいな! いよっし、行くぞ……!」  キギスは島の灯りをきっと睨み、櫂を握り直した。

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