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2.蜃-8
外からの光が遮られ、小屋の中が一瞬暗くなったかと思うと、キギスが焦りを浮かべた顔を勢いよく突っ込んできた。中をざっと見渡し、みるみる表情を晴れやかにする。
「皆……!」
目の端に涙を浮かべて小さく叫んだキギスは、そのまま声を失い、へなへなと座り込んだ。後ろからひょいとサマリサの顔がのぞく。
「おいおい、大丈夫か?」
「ご、ごめんな、ちょっと腰抜けて」
漁師たちの間にどっと弛緩した笑いが起こった。一番近くに座っていた男が、破顔しながらキギスの肩をぱんぱんと軽く叩く。
「キギス、お前が来るとは思わなかった」
「おれで悪かったな。皆、本当に心配したんだからな」
「そうみたいだな。いや、すまなかった」
「助かったよ」
「それを言うのは帰ってからにしてくれ」
再会を喜び合う人々を尻目に、私は小屋に入りきれていないサマリサに声をかける。
「だいぶ早かったな」
「すぐそこにいたんだ。キギスも俺たちを探してたんだよ」
漁師たちに頭を撫でられるのを拒否していたキギスが、気がついたように振り返る。
「大勢で話すには狭いよな。一旦出ようよ」
私たちはぞろぞろと外に出た。と、私は正面に広がる光景に目を奪われた。
空の色が変わっていた。先ほどまで昼間の晴天だったはずだというのに、今はまるで夕暮れ前のような、薄黄色と桃色の混じった色をしている。
自然にあり得る変化の速さではない。これが漁師たちが見たという異変だろう。
男たちはもう驚いてもいないようだった。思い思いの場所に腰を下ろす。私はキギスに話しかけた。
「島を見て回っていたのだろう。変わったことはあったか?」
「ん。安定してねえな。形も何も、しっちゃかめっちゃかだ。前に来た時はこんなじゃなかった」
キギスは薄暮の空を見つめながら首をひねる。
「思ったんだ、力が弱まってるんじゃないかって。マツの島そのものの力が、たぶん、——ワタリ様がいなくなったから」
意見を求めるようにこちらをちらりと見る。私は軽く頷いた。
「同じ意見だ。その術師は、どう考えても誰よりも島と深く関わっていた。おそらく、術で島を管理していたのだろう。村人たちには伝承と語って。亡くなったのはいつ頃だ?」
「もう三年経つよ」
「亡くなってなお三年も、この規模の術が残っている方が驚きだ。相当の実力だったとみえる」
でもやっぱり、とサマリサが口を出す。
「亡くなって、島にもガタがきて。変なところに現れるようになったし、現れる力自体が弱くなった、ってことだよな」
「うん。潮の化け物の現れ方が変わったのも、この辺りの力の均衡が崩れたからかもしれない」
流暢に話すキギスの言葉を、漁師たちは少し目を見開いて聞いていた。
「そのうち、海から陸の方にまで、影響が届いてきた。あれ、おれの歌のせいだよな?」
「せいと言うよりは、要因の一つだろうな」
強力な幻術が、崩れ、剥がれ落ちた残滓。それが波を越えて村にまで届き、本来それと関わりのあった歌と出会う。
「もともと幻を呼ぶための歌に、力が共鳴して、浜に異変を引き起こしたのだろう。船影が消えたり、ないはずの人や物の影が見えたり、足元の地面が急に無くなったり」
話しながら、あるいは、と思う。
あるいは、マツの島自体が、本当にもとはケジだったのかもしれない。術師の力によって漁民を守る砦となっていたのが、解き放たれ、もとの怪異に戻りつつある、という可能性だ。
私はゆっくりとマツの島を見渡した。
人に幻を見せる、姿なきこの海辺の主。
豊かながらも荒い海から、人々を守るモノ。
それなら、あの崖の光景に怖気を感じたのは、やはりケジ絡みの風景だったからだと納得がいく。キギス自身に何か感じたのではなかったのだ。
となると、サマリサにも、今は明らかでない、何かケジに絡む事情があるのかもしれない。
私はしばらくそんなふうに考えごとの中に揺蕩っていたが、キギスの疑問の声で現実に引き戻された。
「にしても、どうして、ワタリ様、自分のしていることを黙っていたんだろ」
「お前には話すつもりだったのでは?」
「へ」
男たちの一人が当然のように言うと、キギスは驚きの表情を浮かべた。私も同意を示す。
「憶測に過ぎないが。島を呼ぶ歌まで教わっていたのだろう? 怪異の見えない他の者とは違う。後継者にしようと、考えてはいたのではないか」
「え……でも……」
戸惑うキギスに畳み掛けるように、漁師たちが口々に賛同する。
「おれもそう思うぜ。と言うか、今のを聞いてて思った。キギス、お前、案外しっかりあの方に教わってたんだな」
「そうそう、びっくりしたぜ。頼りがいがあってさ」
「あの方も、お前を残すことになって、無念だったろうよ。しかしなんたって、自分の死期はわからないからなぁ」
キギスはしばらく口をぱくぱくさせていたが、やがて唇を引き結んでうつむいた。
「……おれ、ワタリ様に恥ずかしくねえかな」
そう、ぽつりと呟く。髪に隠れて表情は見えない。
漁師たちは顔を見合わせ、黙ってまた彼女の背中を叩いた。その力強さのせいか、少し肩が震えたように見えた。
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