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2.蜃-9

 キギスはやがて顔を上げた。きりりとした目には、村で案内役を申し出たと同じ、強い決意が光っていた。  彼女はそっと口を開く。 「おれはこの島、好きだったよ。……おれだけじゃない。皆そうだったんだ。皆の、支えだった」  海を見つめる目は、意志を湛えながらも、どこまでも優しい。 「でも、変わんないものなんて、ねえんだよな。巨岩も波には削られる。皆を迷わせる厄介者になるなんて、ワタリ様にとっても、この島にとっても、本意じゃないって思う。だから、きっと、こうするのもおれたちの役目だ」  キギスは私に向き直り、深く頭を下げた。 「テンキさん。この島を描いてくれ。——とびっきり、きれいに頼むよ」  私が頷くと、顔を上げた彼女は嬉しそうに笑んだ。  と、その視線がさっと海の方に動いた。同じ方に目を移すと、遠い水面に大きな影が現れているのが見えた。——潮のケジだ。  漁師たちにも、影は見えずとも、その纏う(もや)は見えるらしい。一同はしばらく黙って遠洋を見つめた。  やがて影は消え、靄は失せた。見計らったようにサマリサが声を上げる。 「そもそも、マツの島が必要になったのは、多分あの潮のケジがいるせいってのが大きいだろ? テンキ、今は足下も安定してるが、やつをまず描けないのか?」 「描けないことはないが、やめておいた方がいいだろうと思う。……皆はどう考える?」  先ほども聞かれたことだ。私は答え、周囲を見回す。  漁師たちは、さすがに質問の意図には勘付いているようだ。答えに困っているような表情が多い。私はサマリサに向き直った。 「ここは漁村だ。そして、海の恵みや流れにおいて、あのケジが大きな役割を持っている可能性は高い」 「ああ、そういうこと」  サマリサは納得したようにぽんと手を打った。 「海の豊かさのもとになってる、ってことか」 「ああ。そうでなくても、あれだけ大きなものがいなくなれば、獲物に影響は出るだろうな」  危険だが、恵みをもたらす存在。  ——だからこそ、相当の腕を持つ術者ワタリは、潮を追い払うのではなく、非常時の避難場所を用意することの方を選んだのではないか。 「おれもその方がいいと思う」  キギスが注意深く言葉を紡ぐ。 「島と同じくらい、おれたちはやつと一緒に生きてきた。もう一度、やつの現れ方なんか調べ直すのは大変だろうけど……。今までもやってきたことだ、おれたちにならなんとかできる」  そうだろ、とキギスは漁師たちを見渡した。迷いがあったはずの彼らは、どこかキギスに似た、強気な笑みで応えた。 「おれたちは海の子だ。幻に頼ってばかりはいられねえよ」  結論は出たようだ。今後の行動も、これでほとんど決まった。 「沖に出ると潮がいる。この島にやつが近づけないというのなら、島の近くに船を停めて絵に臨もう」 「全体像が見えなくても描けるのか?」 「来たときに見たからな。覚えている」  そう言って、私はキギスと漁師たちを見やる。 「その後は、島の助けなしで帰還を任せることになるが」 「やってみせるさ。な、皆」  海の民たちが、不敵に笑う。つられて口元が綻ぶのがわかった。  私たちは互いに軽く拳をぶつけ合った。  漁師たちは彼らの船に、私とサマリサはキギスの操る船に乗ることが決まった。男たちの力強い手にかかれば、船を運ぶ作業は実にたやすいものだった。  漁師たちに続いて、キギスは船を漕ぎ出した。幻の島の岸辺が、だんだんと遠のいていく。  目まぐるしく変わる空模様は、今はまた少し雲のかかった晴天となっていた。陽光は春らしく暖かく、水面はきらきらと光る。  ゆったりと揺れる船の上で、私は手早く道具を広げた。絵筆。墨壺。紙。手に馴染んだ品々は、湿った船板に囲まれ、窮屈そうに身を寄せあっている。  私は作業を続けながら、熱心に私の手元を見ているサマリサに声をかけた。 「サマリサ」 「ん、何だ?」 「行きの船では、すまなかった」  愚痴混じりの自虐を、一方的にぶちまけてしまったことだ。謝る機会を逃していたことが、今まで心に引っかかっていた。  ああ、とサマリサは軽く笑う。 「気にしてないし、気にすんなよ。潮のやつにあてられたんだろ? あんた、勘が鋭いぶん、影響されやすいからな」  何ともあっけらかんとしている。彼と喋っていると、気を楽にしてもいいのだと思わされる。  もう少し話してもいいのだろうか、聞いてくれるだろうか、とも。 「……あの時言ったことは、本心ではない、というわけでもない」 「いや、どっちだよ」 「どちらもだ。しかし、迷いはしない。仕事に対して、つまらないことだと思うと同時に、誇りも持っているんだ。おかしなことだがな」  私は軽く息を吸い込んだ。目を閉じて、島の姿を思い起こす。貝混じりの砂が、黒い磯が、風に揺れる草が、脳裏に浮かんでくる。 「私は絵師だ。絵を描くことが、私の生」  瞼を開く。無垢の紙面が目に飛び込んでくる。  躊躇なく、私は筆を走らせた。  脳から伝わる稲妻が、私の手先を躍らせる。  擦られた墨が、磯岩の裾を紡ぎ、波飛沫の花を咲かせ、見る間に島の輪郭があらわになっていく。  ケジたちを絵という一つの姿に閉じ込めてしまうこと。それは反面、捉えどころのない彼らに、姿を与えるということだとも言える。  形のないものに形を与えるのは、恐ろしい危険と責任を伴うことだろう。    ——それでも、私は彼らを絵に封じる。深い闇の夢も、穏やかな光の幻も。  閉じ込めることで、惑わされずに済むように。  形を与えることで、心を落ち着けられるように。  異なるものと、共にあることを感じるために。  ことり、と置いた筆が、船の揺れで小さく転がる。  しっとりと濡れた紙の上には、長年海辺の民を導いてきたその島の、霞みがかった姿が現れていた。  一陣の潮風が吹いた。音もなく、しかしとても大きな変化が目の前で起こっているのを感じ、私は紙から目を上げた。  マツの島の輪郭が揺らいでいた。溶けるように、ゆらゆらと。やがてその端から姿を薄れさせ、見る間に島は消滅していった。  キギスは祈るように目を閉じていた。私とサマリサもそれに倣う。波の音が耳を抜けていく。また、一抹の寂しさが胸を襲う。  私は自分のあり方を、絵師であることを迷いはしない。  迷いはしない、けれど。  私はゆっくりと目を開き、サマリサに向き直る。 「お前に、私はケジたちを真剣に見つめていると。そう言ってもらえて、嬉しかった。……何か、とても大事なことを認められたような気がして」  サマリサは数度瞬きをした後、これまで見たどんな表情よりも柔らかく微笑んだ。 「やっぱり、俺は好きだよ。絵を描くあんたも、あんたの絵も」  とく、と、心臓が妙な鼓動を打った。不思議に心地よい感覚だった。 「……サマリサ。抱きしめてもいいか」 「えっ!? い、いいけど、なんで急に」  お前の腕の中は安心できるからだ、とは答えずに、私は黙ってサマリサの胸に寄りかかった。彼はしばらく動揺を隠せずにいたが、やがてそっと背中に腕を回してきた。  じんわりと温かさが伝わってくる。脈打つ鼓動は、私のものも、彼のものも、普段より少し早い。  と、軽い咳払いが耳に届いた。 「お二人さん、仲良しのとこ悪いが、構えてくれ」  キギスは徐々に濃くなる霧の中の一点をじっと睨んでいた。櫂を強く握り締める。 「——来る」  波の向こうに、黒々とした潮が迫っていた。

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