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2.蜃-10
迫る波の吸い込まれそうな暗さ。私は寸の間、見惚れてしまった。
高々と眼前を覆う紺碧の壁を前に、まるで天地がひっくり返り、海に落ち込んでいくかのような錯覚に陥る。
恐ろしく、美しい。
「テンキ、絵!!」
慌てたサマリサの叫び声。そうだ、ぼうっとしている場合ではない。私は強く瞬きをし、無理やり意識を現実に引き戻した。
描いたばかりの絵に捨て紙を重ね、くるくると巻いて竹筒に収める。素早く絵筆や道具をまとめ、布にくるみ込み、船の奥に放る。
空いた手が船縁を掴むのと、波が船に直撃するのがほとんど同時だった。
衝撃。激しい水飛沫に顔を背ける。それでも口の端に塩水の味を覚えた。
大きくうねる海の向こうを見やれば、漁師たちの乗ったもう一艘の船が、木の葉のように揺らぐ姿が霞んでいる。
「霧が濃いな……。互いを見失わないよう、注意した方がいいだろうか」
「よっしゃ、任せろ。……おっさんたちー、驚くなよーー!?」
大声を張り上げたサマリサが、遠い船に向かって、複雑に手を動かす。
と、舳先にぼぅっと赤く火が灯った。目の端にちらつく光に目をやれば、こちらの船にも同じような炎が踊っている。
「よっ、と」
サマリサは伸ばした腕をそのまま目的地の陸へと向ける。霧の向こう、遠い浜にも火が灯った。
ただし、こちらは陽光のように黄色く、波の上によく目立っていた。
「器用なものだな」
色を変えられるとは。私は素直に感心した。
軽い悪戯のようなものを除けば、彼が術を使う姿はほとんど見たことがなかったのだ。
「見せ物になるかと思って覚えたんだ。こんなことに役に立つとは思わなかったけどな」
「ありがと! みんなー、黄色い光の方に進め!」
キギスは叫び、櫂を水に突き刺した。力強い漕ぎが頼もしい。
ここから先は彼女に頼るしかないのだ。船を安定させられるよう、私はつとめて身を縮めた。
役に立てないとはいえ、困難な状況の中、何もせずただ座っているのも心苦しい。
幾度となく襲いくる波の振動に黙って耐えていると、ふとサマリサが水面を指差した。
「なぁ……、なんか、流れがおかしくないか?」
指の先を見る。
渦だ。大きな渦潮。潮のケジの動きに巻き込まれたのか、波が逆巻き、泡立ち、周囲のものを引き込もうとしている。
「大丈夫そうか、キギスさん?」
「あれに巻き込まれたらまずいな。急いで離れるしかない。……荒っぽくなるから、しっかり掴まってて」
櫂を掴む手に力が籠る。
言葉通り、船の揺れはさらに大きくなった。度重なる振動に、荷物がかたかたと音を立てる。
「あっ」
一際大きな揺れが、嫌な予感に先んじた。
がたんと荷物が跳ね、軽い竹筒——マツの島の絵が宙に放り出された。筒は回転しながら、船の外へと落ちていく。
と、眼前を赤い影が動いた。
「待っ…………!」
「馬鹿っ、危な……!」
サマリサが身を乗り出し、宙を舞う筒を掴んだ。勢いのついた体重を受けて、大きく船が傾 ぐ。咄嗟に片手で掴もうとした船縁は濡れている。
ずるり、と。サマリサの手の滑る様がやけにゆっくり見えた。
水柱。波飛沫。
「サマリサ!!」
私は急いで手を伸ばしたが、遅かった。転げ落ちたサマリサは、尋常ではない速さで船から離れていく。
潮に攫われかけている。——これはまずい。
躊躇している余裕はなかった。私は懐に手を突っ込み、かさかさした感触を引き出す。
折り畳まれた一枚の紙。上手く動かない指でびりりと乱雑に破り、天にかざし、吼える。
「あの男を引き戻せ!!」
紙面から、墨色の影が飛び出した。影は弧を描いて水に飛び込み、瞬く間にサマリサにまといつく。
「お、わ、おわぁあああっ!?」
彼の身体はたちまち持ち上げられたかと思うと、乱雑に船の中へと投げ込まれた。影は役目を終えたとばかりに、再び音もなく水に飛び込み、消え去った。
びっっっくりしたぁ、と、ぐしょ濡れのサマリサが転がったまま心臓に手をやる。
「なんっだ、今の。あんたがやったのか?」
「以前封じたケジの力を借りたんだ」
絵に閉じ込めたケジは逃すこともできる。当然、二度と戻ってはこないが、モノによっては、最後に一度だけその力を借りられる。
描き溜めた絵の数に限りがある以上、これは奥の手だった。
「んなこともできるのかよ……」
「そんなことより、無茶をするな。絵一枚などより命の方が大切だ」
「へへ、すまん、つい。あんたの絵だからさ」
あっけらかんと笑い、大事そうに竹筒を握りしめる。温かなその仕草に、思わず返す言葉を失う。
私が言葉に詰まっている間に、サマリサはキギスに声をかけていた。
「キギスさん、すまん。俺は大丈夫だ。お前さんはまだいけそうか?」
「平気だよ。渦は抜けた。このデカブツの相手にも慣れてきたさ」
キギスはすぅ、と呼吸を整え、呟く。
「こいつには意思はねえ。船を追ってきているわけじゃねえ。流れから抜け出す道さえ見出せれば——……」
水面の先を鋭く睨むその横顔は、歴戦の海の民の勇ましさだった。
「——見えた」
一点を見据えたキギスは、再び勢いよく漕ぎ出した。
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