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2.蜃-11
勢いよく水面を切る櫂。跳ね上がった飛沫がきらきらと輝く。
船を操るキギスの表情に疲労の色は見えず、口元にはむしろ不敵な笑みさえ浮かんでいた。
ああ、ここは彼女の海なのだ、と思う。
恐れることも、迷うこともない、彼女の故郷。
徐々に晴れていく霧から射す陽光に照らされて、その姿は眩しかった。
やがて波は打ち寄せることもなく穏やかになった。
先ほどまでが嘘のように凪いだ海の向こうに、黒々とした影が遠ざかっていくのが見えた。同時に胸につかえるような漠然とした不安が薄れていく。
「振り切った……?」
見渡せば、少し離れた海に赤い炎が揺らぐのが見えた。もう一艘の船も無事に潮を抜けたようだ。
私たちは顔を見合わせ、笑み、誰からともなく拳をぶつけ合った。
村のある海岸にたどり着くまでにそう時間はかからなかった。
浜には人影がまばらに見えていた。
中に一際小さい姿が見える。近づくにつれて、それが村で幻を見たと言ったあの子供だとわかった。あんぐりと口を開け、漁師たちの乗った船を凝視している。
「お父!!」
叫んだかと思うと、服の濡れるのも構わず、転びかけながら海に向かって走ってきた。
慌てたように男の一人が船から降り、駆け寄ってきた子供をしっかりと抱きとめる。
「そうか、行方不明だった父親が……」
「ああ。良かった、本当に」
話しながら船から降りた私たちに、子供はすぐに気がついたようだった。もう一度父親をぎゅっと抱きしめ、こちらに歩いてくる。目にはわずかに涙が溜まっていた。
「おじちゃん、ありがとう。お父たちをつれて帰ってきてくれて」
「私たちだけでない、彼女の力だ。礼を言うといい」
キギスを示すと、子供はにっこりと笑った。
「もちろんだよ。僕、しんじてた。ありがとう、キギスねえちゃん」
キギスは少し照れたように微笑み返すと、子供の頭を優しく撫でた。
そのまま私たちは浜にいた村人たちに取り囲まれ、驚かれるやら、喜ばれるやら、感謝されるやらの歓迎を受けた。騒ぎを聞きつけて、村で作業をしていた人々もさらにばらばらと集まってくる。
まるで祭りのような賑やかさの中で、漁師たちの無事を祝う宴を開くことが瞬く間に決まった。
「これを。マツの島を封じた絵です」
絵の入った筒を差し出す。村長は封を開けて紙を広げ、深い感嘆の声を漏らした。
「昔、一度だけ見たあの姿のままだ……。なんと、見事な」
「処分はお任せします。お好きになさるといい」
私は温めた酒を啜った。村人総出の宴席は既に出来上がっており、明らかに酔いの回った者がちらほら見える。
隅の方には、先ほど再会を果たした家族が固まって座っていた。父親が子供の口元を拭ってやり、母親はそれを嬉しそうに眺めている。
絵を前に唸る村長に、あの、と声がかけられた。キギスだ。村人たちに手柄を褒められ、頭を撫で回されて、髪が少しくしゃくしゃになっている。
「おれはこの絵、とっておきたい」
おれたちを見守ってきてくれた島だから。と、キギスは真剣な面持ちで言う。
「おれ、ワタリ様の遺した術のこと、勉強しようと思って。それでいつか、島の術のことがわかったら、——その時には、絵を破いて、もう一度島にこの村を守ってもらいたいんだ。……いいかな」
目を向けられ、私は軽く頷いた。
「無論、構わない。望みが叶うといいな」
村長はしばらく考え込んでいたが、やがてふっと息を吐くと、絵を丸めてしまい込み、ついとキギスに突き出した。
「お前に管理を任せよう」
キギスは驚いて目を見開いた。
「えっ……、おれが、おれでいいのか?」
「任せると言っている。ワタリの後を継ぐのだろう?」
期待しているのだ、と村長は目を細める。
キギスは顔を綻ばせ、そっと筒を受け取った。
「ありがとう。長、おれ、頑張るから」
ふと、自分の口元が緩んでいるのに気がついた。目の前の光景のせいだろうか。それとも、久しぶりに絵を燃やされなかったことが、己の思っているより嬉しかったのか。
「嬉しそうだな」
隣に座っていたサマリサが声をかけてきた。彼もまた楽しそうに、綺麗な顔に笑みを浮かべている。
「ああ。お前が絵を守ってくれたお陰だ」
「なんだ、素直だな。酔ってるのか?」
「そうかもしれない。……少し歩かないか?」
「お? おう。いいぜ」
村長に断り、私たちは連れ立って外へ出た。
浜辺の村は夕暮れの薄闇に包まれていた。
昨日とよく似た景色だが、もう波の向こうの風景や、地面が揺らぐことはない。
「冷えないか?」
「少し寒いな。酔い覚ましにはなる」
私たちはしばらくぶらぶらと歩き、やがて手ごろな岩に腰を下ろした。
淡い紫の空には星がぽつりぽつりと散っていた。
綺麗だなぁ、などと呑気に呟くサマリサに、私は向き直った。
「サマリサ。……お前に、話したいことがある」
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