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2.蜃-12

 サマリサは私の顔を見、すっと居住まいを正した。表情が瞬く間に真剣なものへと変わる。切り出そうとしている内容が伝わったのだろう。  私は軽く息を吸い、唇を開いた。 「——この先、お前と旅を続けることはできない」  茶色い目が見る間に曇った。サマリサは眉尻を下げ、ひどく寂しげに肩を落とす。 「やっぱり、迷惑だったか。無理やりついて来たんだもんな。……それとも、何か悪いことしたか? 昼間、あんたを怒らせちまったから——……」 「違う。その反対だ」  私は急いで否定する。彼を疎ましく思ったわけではないのだ。  これは、私自身の問題。 「お前は、温かくて、優しすぎる。お前の隣は、私には居心地が良すぎるんだ」  サマリサは虚をつかれたように黙り込んだ。 「だというのに、私はお前の望みに、お前の絵を描くという願いに応えてやれない。いつまでもついて来させては、心苦しい」 「……そんなこと、別に気にしなくていいぜ。あの時は確かに描いてくれなんて言ったけど、今はあんたのそばにいて、描くの見てるだけでも楽しいんだ」  少し安堵したような、それでいてまだ所在なさげな声色で、彼は食い下がる。   「願いなんかナシで。ただの道連れとしてでも、ダメか?」 「だめではない。が、やはり落ち着かない。私に、何もできないのは……」  しばらく、沈黙が落ちた。打ち寄せる波の音がかすかに響く。  静寂を破ったのはサマリサだった。 「……テンキ。あんた、なんでそんなに苦しそうなんだ。俺が聞いちゃあいけないことか?」 「…………いや」  胸のつかえを見抜かれて、私は動揺した。しかしそれと同時に、強い欲求に襲われた。  彼に、何もかも晒してしまいたい。  私の罪を、聞いてほしい。    視線を上げると、サマリサの顔が目に映った。  気遣いの混ざった、真摯な眼差し。 「面白い話でもないが、聞いてくれるか」  自然と言葉がこぼれた。サマリサは微笑み、軽く頷く。  そっと背中を押されたかのような気がした。   「——かつて人間を描いたことは、ある」  私は慎重に言葉を選んだ。  誰かに自分の過去を語るのは初めてのことだ。 「今のようにケジだけというのではなく、昔は本当に何でも描いた。草木、風景、鳥獣、人も」 「そりゃ、ぜひ見てみたいな」 「あぁ……。人。人を」  体が震えた。俯き、手を膝の上でぎゅっと握りしめる。 「私は、人を殺した」  サマリサは何も言わなかった。目を合わせることができず、私は急いて言葉を継ぐ。 「その人……私の母は、当時、病で床についていた。まだ子供だった私は母の姿を絵に描いたんだ」  それは、どこまでも暗く苦い記憶だった。 「描いていた最中か、直後かはわからない。気がついた時には、母は事切れていた。……以来、人を描こうとすると、命が紙に吸われる幻覚に苛まれる」 「ケジみたいに、封じ込めたってこと、か」  サマリサがやっと口を開いた。声には困惑が浮かんでいる。 「人の命を、紙の中に。そんなことが……起こり得るのか」 「あり得ないことだ。私にそんな力はない」  私はかぶりを振った。 「自分の直感でも、経験上も、同業の術師たちからの意見でも。私が封じられるのはケジだけだ」 「それじゃ、あんたが殺しちゃいないんじゃないのか?」 「この手のせいではないと、頭では、理屈ではわかっていても。あの時の、骨の髄まで冷え切る感覚が消えない。お前は人殺しだと、脳の裏で苛む声も」  かつて、絵を描くことは私にとっておまじないだった。  人よりもケジをよく目にし、怯える私に、母が教えたおまじない。  恐ろしいものに出会った時、しっかり見つめて姿を描けば、不思議と心が穏やかになるのだと。  私は安らぎのため、やがて興奮を消化するため、心惑わすもの、心動かすものを描き続けた。 「弱った母の姿がどうしても怖かった。だから、私は不安を塗りつぶそうとした。恐れを退けるおまじないに、病人の絵を描こうとしたんだ。そして愚かにも、より重い不安を抱え込んだ」  私はその時、恐怖のために、人として大切なものを失ってしまったのだ。  筆など執らず、手でも握っていれば。きちんと母と向き合っていれば。    自分が殺したなどという不安を抱えることはなかったのに。  目を合わせて看取ることができたのに。  母の最期を、一人にすることはなかったのに。    どれほど後悔しても、遅かった。 「それが、あんたが人を描けない理由か」 「笑ってくれ。私は弱い人間だ。昔も今も」  苦々しく吐き捨てる。ふいに、手に触れるものがあった。  サマリサの手だ。温かい指がゆっくりと私の手の甲を撫でさすり、固く閉じていた拳を開いていく。  いつの間にか自分の手のひらに爪を立てていたことに、それでやっと気がついた。 「サマリサ。私は、お前が好きだ」  言葉は口をついて出た。顔を上げることができないので、彼の表情はわからない。   「熱の通った、身体が、言葉が、笑顔が好きだ。その全てが、もしも、もしもこの手で消えてしまったら、私は」  赤紐の絡んだ手をそっと握りしめる。  この温もりが、優しさが、消えてしまう恐怖。  そんなことには、耐えられない。 「望みには応えられないんだ。だから、もうついて来なくていい。——私にお前を消させないでほしい」  波の音が遠く響く。  私は握り合った手をなおも見つめた。赤紐の擦れる感触が忌々しい。たった紐一筋に、私たちがひどく遠く隔てられている気がしてくる。  と、柔らかい声がかかった。 「……テンキ、あのさ。俺からも、打ち明け話をしてもいいかな」

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