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3.獺-2
とぷん、と、遠い水面が小さく揺れる。
「お?」
サマリサが焼き魚の串を口から離して目を細める。
「今なんかいなかったか? テンキ、見えたか?」
「ああ……」
私は釣竿から片手を離してぼんやりとまぶたをこする。食後の満足感と山道を歩いた多少の疲労、川面を渡るひんやりとした心地良い風が相まって、とても眠い。
件の灯籠流の村まであとわずかの距離まで来たところで、手持ちの食料が尽きた私たちは川で釣りをしていた。私は先に食事を済ませ、戯れ半分に再び竿を振っている。
夏の熱気は山を降りたことで一段と強くなり、昼の太陽は景色を光も影もいっそう濃く彩る。
みっしりとした草むら近くの水面が時おり奇妙に波立つことに、私はサマリサの少し前から気づいていた。
きらきらと光る水の下を素早く動き回る気配に、ぐっと精神を集中する。
「……んー、……獺だな、こんな昼間に珍しい」
「カワウソ!? ほんとか、俺初めて見た!」
サマリサは水面に負けず劣らず目を輝かせ、また獣が現れないかと、対岸をきょろきょろと探し始める。やがてつぶらな瞳の獣がちゃぷりと顔を覗かせ、すぐにまた潜っていった。
「……あっ、出た! 頭! 俺にも見えたぜ、テンキ! わー、かわいい!」
はしゃいでいるお前の方がかわいい、という言葉が寝ぼけた頭に浮かんで消えた。代わりに口にする言葉を探して、ふと思い出す。
「そういえば、あれは人間に化けるという話がある」
「ああ、聞いたことあるかも。狸とかみたいだよな。……ん、まさか本当に、じゃないよな?」
「本当に人に化けることはないだろうが……。川はケジもよく湧く場所だ。そういう異変の原因とされやすい、というのはあるかもしれないな」
「確かに、ああやってちょこまか遠くで動いてると、なんだかよくわからないもんなぁ」
サマリサは頷き、持っていた焼き魚の残りを一口で齧った。私は先ほどから全くあたりのない竿の糸を引く。いつの間にやら、針先には餌がついていなかった。ふっと一息ついて私は立ち上がり、裾の砂埃をはたく。
「そろそろ片付けるか。暮れる前には村に着きたい」
「おうよ。この川が例の灯籠流の川の支流なんだったよな」
「そうだ。この流れ沿いに道を遡れば村に着く」
毒消売にもらった地図を懐から引っ張り出して眺めていると、焚火の残りを消していたサマリサが声を上げた。
「テンキ、見ろ、あれ。なんか流れてくるぞ」
「うん?」
視線を上げると、サマリサはもう手にした釣竿の先端で漂流物を岸辺に寄せているところだった。
「おぉっと、これ、人形だ」
「人形? 見せてみろ」
サマリサに手渡された、濡れてなお華やかな桃色の布をまとったそれは、確かに一体の女の子の人形だった。一瞬何かの儀式用か、そうでなくても良くないものかと懸念したが、特に妖しい気配はしない。作りは素朴なものだが、乾かせば小綺麗ですらあるだろう。
「大丈夫だ、ただの玩具 だな」
「捨てた……って感じでもないな。子供がうっかり流しちゃったか? 上流って村の方だよな」
向かいついでに持ってってみるか、とサマリサは笑い、人形を着物の端で丁寧に包んで水気を拭う。
と、背後からがさりと草をかき分ける音がした。
サマリサと同時に振り返る。
立っていたのは一人の小さな女の子だった。
6、7歳くらいだろうか。おかっぱ頭につんつるてんな着物。驚きと警戒の混ざった表情で固まってしまっている。突然見知らぬ男二人を目の前にしたのだから無理もない。
どう声をかけたものか迷っていると、サマリサが手の人形を軽く振った。
「あんた、もしか、お友達を探しに来たのか?」
少女の表情がぱっと晴れた。しかし、まだ少し気後れしているようで、返事はない。
サマリサが少女に笑いかける。
「驚かせちまってごめんな。俺はサマリサ、こっちはテンキ。旅をしてるんだ」
「怪しく見えるだろうが、悪意はない。近くの村に用事があってここに来た」
私が毒消売から聞いていた村や村人の名を挙げると、少女は少し警戒を解いたようだった。
「それ、私の村」
少女がおずおずと歩み寄ってくる。
「……あの、それ」
「勿論、返すよ。ほら」
サマリサはしゃがみ込み、少女に両手で人形を渡した。少女の表情がぱっとほころぶ。
「ありがとう。よかったぁ」
「ここまで一人で歩いてきたのか?」
私が問いかけると、少女はぶんぶんと首を振った。
「ううん。ふたりで。アヤがいたずらして、ヒナちゃんを流しちゃって。一緒に探しながら来たの」
「二人?」
「そうだよ。アヤと。あ、アヤは私の友達だよ」
軽く見回したが、辺りには私たちの他に人はいない。
「その人形の名か」
人形が友達ということかと思って訊ねると、少女はむっとした様子で口を尖らせた。
「違うよ。言ったでしょ、この子はヒナちゃん。アヤはね、恥ずかしがりだから……、でもいるよ、ほら、あそこ」
少女は喋りながら川面を指さした。その先には当然人など一人もおらず、ただ綺麗なせせらぎがあるだけだ。サマリサが困ったようにこちらに目配せしてくる。
「……?」
困惑する私たちを尻目に、少女は段々と元気を取り戻してきたようだった。にこにこと笑いながら人形をちょこちょこと動かす。
「私イカワ。で、あっちがアヤ。と、この子はヒナちゃん。……あれ、釣りをしてたの?」
放っておいたままだった釣竿と焚き火の跡に目を留め、イカワが問いかけてくる。
「そうだ」
「へえ、魚取りなら、私たちうまいんだよ。ヒナちゃんを見つけてくれたお礼に手伝ってあげる。持ってて!」
「あっおい」
止める間もなく、イカワはサマリサに人形を押し付け、ぱっと駆け出したと思えば、もう躊躇なく水に入っていた。
「アヤ」
うっそりとそう呟いて、イカワは波間に潜って消えた。
「え、おい、危なくないのか」
サマリサが慌てて川辺に寄る。と、ばしゃんと水を跳ねて少女が顔を出した
「ほら!」
「……!」
イカワは高々と掲げた片手に二匹も魚を掴んでいた。サマリサが驚きで硬直する。
「なるほど、上手だ」
「そうでしょう。アヤはすごいんだから」
イカワは嬉しそうに笑って岸に魚を放ると、再び水中に潜っていった。
いくら慣れていたとて、一瞬で川の魚を素手で、しかも複数捕まえるのは異常だ。私が眉を顰めて様子を見つめていると、戻ってきたサマリサがそっと声をかけてきた。
「……テンキ、さっきから、あの子は誰の話をしてる? 何もいないのに」
「いるんだ、川の中に。「アヤ」が。姿はよく見えないが、魚を獲って、イカワに渡した」
サマリサは訝しげだ。
「まさか獺じゃないよな? 人……?」
「いいや」
私は揺れる水面を見据える。疑いようのない独特な気配。
「あれは、ケジだ」
びちりと足元で魚が跳ねた。
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