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3、脅しか?脅しなのか?

「右手、どうしたんだ!? まさか、折れてるんじゃ……!?」 「折れてはない、軽い捻挫だ。ストーカー男と一緒にコケた時、右手を地面についちゃってさ」 「どっ……どどど、ど、どうしよう……!! 君、ヴァイオリンを弾くんだろ!? 右手が使えなきゃ……」  真っ青になりながら、僕は由季央の傍にがくりと膝をつく。がたがたと震える両手で、包帯に包まれた右手を包み込むように触れ、半泣き状態で由季央を見上げた。  あまりにも僕が哀れで情けない顔をしていたのか、由季央はややぎょっとしたように頬を引き攣らせた。 「どうしよう……! ヴァイオリニストの音楽家生命を絶ってしまうなんて……!!」 「……いや、動揺しすぎ。大丈夫だってこれくらい。医者も二週間くらいで治るって言ってたし」 「に、二週間!? 治るのか!? 本当に!?」 「てかちょっと静かにしろよ。声でかいんだよあんた……あれ?」  大騒ぎしている僕を呆れ顔で見下ろしていた由季央の目が、ふと何かに気づいたように瞬かれた。伸びてきた指先が、くいと僕のシャツの襟にかかる。ネックガードに気付いたようだ。 「あんた……オメガなの?」 「え? ああ……そうだが」 「オメガなのに、警備の仕事やってるわけ?」 「それが何か?」  こうして驚かれることには慣れている。オメガは弱者で、庇護されるべき存在だというイメージは、いまだに根強く残っているからだ。  特にアルファから指摘を受けることが多い。何でわざわざ危険を伴う仕事に就くのかと、心底意味がわからないと言った顔をされることがほとんどだ。「どうせいつかはアルファの番を得て、守られる側に回るくせに」……と。  アルファは強者であり、生まれながらにして支配する側の存在だ。下の方から必死に努力して何かを勝ち取ろうとする者の心理について想像が及ばないのではないのだろう。  由季央も若いアルファだ、どうせそのくちだろう。名門の音楽家一族なのだ、きっと古風で居丈高な教育を受けてきたに違いない……と、頭の片隅でチラリとそんなことを思った。  だが、由季央は僕のシャツに触れていた手をスッと引っ込め、何やら思案しているような顔で腕組みをしている。 「オメガのガードマン……か。アイドルの護衛が専門なの?」 「ち、違う! 僕はこれでも、入社五年で国家主賓レベルの要人警護まで経験のある優秀なボディガードだ! 今日はっ……今日はちょっと油断が出ただけで……っ」 「国家主賓レベル? ほんとかよ」 「本当だ!!!」  くわっとなって捲し立てる僕の全身を、由季央は無遠慮に眺めまわし始めた。  そして、最後にじーっと僕の顔を見つめた後、決然とした口調でこう言った。 「よし、決めた。こっちに滞在する期間中、あんたを雇う」 「……えっ? は?」 「二十四時間警護を頼みたいんだ。金はきっちり払う。いいだろ?」 「ちょ、ちょっと待ってくれ! 二十四時間って、そんな」 「あと、一つ追加で頼みたいことがあるんだけど」  ——こいつ……人の話を全く聞かないな!!  僕が承諾してもいないうちから、由季央はぽんぽんと話を進めてゆく。しかも、追加で頼みたいことというのが……。 「俺の警護をする間は、恋人のふりをしてくれ」 「……はい?」 「俺ももう23だ。そろそろ親戚たちがうるせーんだよ。早く番を作って身を固めろってさ」 「え……え、でもそんな、ご親戚たちの前で嘘をつくなんて」 「いーんだよ、別に」  僕の言葉に由季央は眉を寄せ、吐き捨てるようにそう言った。……だがちょっと待ってほしい。僕はまだ、二十四時間警護についても承諾した覚えはない。 「……と、とにかく話を戻そう。まず、二十四時間警護なんてプランはうちにはなくて……」 「さっき秘書から聞いたけど、あんた、無期限謹慎処分喰らってんだろ?」 「うっ……」 「てことは、仕事なくて暇なんだろ? じゃあいいじゃん。金も払うって言ってんだし」 「か、金の問題じゃない! そ、それに……恋人のフリとかなんとか、意味が分からない。そんな仕事を受ける義理はない!」  グッと拳を握り締め、声高にそう言い放つ。  そうだ、いくら相手が名門アルファのヴァイオリニストとはいえ、恋人のフリをしながら二十四時間警護をするなんて無茶な話だ。  おおかた、この間の潜入捜査で出くわしたドスケベ変態アルファのように、「恋人なんだから、夜もヤることやらねーとな」と、いやらしく迫ってくるに決まっている。  あの日変態政治家に触れられた感触を思い出し、僕はおぞぞぞと戦慄しながら両腕で身体を抱きしめた。  だが由季央は、表情ひとつ変えずにこう言った。 「じゃあ、あんたの会社を訴えてもいーんだな」 「えっ……!?」 「そっちの仕事に巻き込まれて、俺の右手はこの通り。しばらく使い物になりゃしない」 「うっ……」 「俺はヴァイオリニストだ。大切な大切な手を傷付けられて、重大な精神的ストレスを感じている」 「くっ……」  ——さっきは「大丈夫だってこれくらい」とか言ってたくせに……!!!  僕がふるふる震えていると、由季央は唇を半月状に釣り上げて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そして、ちょいちょいと指で僕を呼ぶ。  致し方なくベッドの方へ歩み寄ると、由季央はきっちり締めた僕のネクタイをするりと掴み、くい、と軽く自分の方へ引き寄せる。その拍子に軽くつんのめり、思わず由季央との距離が縮まった。  よく見ると、彼の目の色は紫がかった青い瞳をしている。透明度の高いサファイアのような美しさだ。見据えられると引き込まれて、何も言えなくなってしまう。 「治療費、慰謝料はどのくらいかかるかなぁ。それに、俺を傷物にしたって世間が知ったら、あんたんとこの会社にはもう、どこからも依頼が入らないかもしれないな〜」 「ぐっ……」  ——脅し……だと!?  由季央はうっそりと目を細め、歌うような口調でさらに畳み掛けてくる。 「だけど、今回の二十四時間警護を受けてくれるなら、俺はあんたらを訴えない。料金も相場の倍払う」 「……」 「どうする?」  どうする? と問われて、これにどう答えろというのか。  確かに、今回のことは全面的に僕のミスだし、怪我をさせてしまったことを申し訳なく思っている。だが、訴訟を盾に無理難題を言いつけてくる由季央の態度は、腹立たしいことこの上ない。  だが、断るという選択肢は存在しない。由季央がどういうつもりでこんな依頼を出してきているのかは分からないが、しばらくの間この青年アルファのそばで恋人らしい振る舞いをし、夜のセクハラに耐え(されるとは決まっていない)れば、『exec』に迷惑をかけることもないし、僕のキャリアに傷がつくこともないのだ。  僕は、への字に引き結んでプルプル震えていた唇から力を抜き、はぁ〜〜……と深いため息をついた。 「わ…………分かった」 「OK。じゃあ、早速今日からな」 「はっ!? ちょ、ちょっと待ってくれ、こっちにも準備ってもんが……!」 「どんな準備?」 「え、ええと……。き、着替え、とか?」 「必要なものは全部こっちで用意する。あんたはとりあえず、その安っぽいスーツを脱げ」 「安っぽ…………というか、脱げってどういうことだ!? いきなりここで奉仕しろとでも……!?」 「奉仕?」  眉を寄せ、由季央が首を傾げている。僕ははっとして口を押さえた。そして「……な、何でもない……」と呻く。  全てを諦めたような僕の様子を見て、由季央が満足げに笑っている。僕はぐぎぎと奥歯を噛み締め、「この横暴アルファ野郎」と、心の中で悪態をついてみる。 「塚原、後を頼んだ」 「はい」 「塚原?」  ハッとして後ろを振り返って仰天する。音も気配もなく、仕立てのいいスーツに身を包んだ背の高い男が佇んでいたのだ。僕はとっさに塚原 某なにがしから距離をとり、身構えた。  ——すぐそこにいたのに全く気づかなかった……! 武道の達人と近しい気配を感じる……!!  と、構えをとる僕の警戒心など素知らぬ顔で、執事然とした塚原という男は綺麗なお辞儀をした。 「由季央様の秘書をしております、塚原と申します。今後は、何なりとお申し付けくださいませ」 「……秘書……? ほんとに秘書なのか? あんたもボディガードなんじゃ……」 「いいえ、あくまでも秘書でございますが」 「はあ……」 「本日より、貴方様は由季央様の恋人という設定でございます。あなたのご命令にも、可能な限りお応え致します。どうぞよろしくお願いいたします」 「はぁ……どうも」  年齢は三十前後、というところだろうか。眦のやや切れ上がった目元には隙がない。どことなく狐を彷彿とさせる容姿には揺るぎのない落ち着きがあり、低音ボイスと相まって貫禄がある。 「と……とにかく一度家に帰らせてくれ。僕はオメガだ。常備している薬とか……色々、取りに帰らないと」 「あー……そっか、なるほどね。じゃあ塚原に送らせる。車を回してやれ」 「かしこまりました」  胸に手を当て、再び綺麗なお辞儀をした後、スッと踵を返して塚原は姿を消した。無駄のない動きだ……きっと武道の嗜みがあるに違いない——などと考えつつ、僕は改めて由季央のほうへ向き直る。 「……やるからにはきちんとやりたい。しばらくの間、よろしく」  ずい、と僕はやけくそ気味に手を突き出した。  そう、これは仕事として引き受けたことだ。やると決めた以上は、完璧にこなすのが道理である。  鼻の穴を膨らませながら決意を漲らせる僕の表情を見て、由季央がふっと可笑しげに噴き出した。 「何だその顔」 「うるさい」 「……ま、よろしく頼むわ」  左手同士で固い握手を交わす。  指の長い、大きな手だ。ひんやりとした由季央の手を見つめながら、「握力が強そうだな」と僕は思った。

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