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4、伊月家のあれこれ

 由季央の秘書である塚原に一度自宅へ送られたあと、僕は適当に荷物をまとめて再び車に乗り込んだ。  後ろへ後ろへと流れてゆく風景はすでに暮れなずみ、気づけば夜空へと塗り変わっている。  なめらかな革張りのシートはほどよい弾力で僕の尻を包み込み、心地良いことこの上ない。しかもBGMはクラシック。早朝のアイドル護衛任務に始まり、一日中バタバタと大忙しだったこともあって、ついうとうと眠りこけてしまう。基本的に、僕はどこででも眠れるタイプだ。  だが、停車した瞬間のかすかな揺れで、僕はハッと目を覚ました。同時に、後部座席のドアが静かに開かれる。 「到着いたしました。さぁ、どうぞ」 「あぁ……ありがとうございます」  降り立った場所は、どうやら伊月家の車庫の前であるらしい。ピタリと閉じた鉄製のシャッターがずらりと並んでいる。今僕が乗せられていた黒塗りの高級車が、あと五、六台は収納されているに違いない。  車寄せ部分も広々としていて、綺麗にタイルが敷いてある。低い生垣の向こうには点々とライトアップされた竹林が広がっているようで……なにやら、一般家庭とは程遠い雰囲気を感じる。 「あの……そちらのお荷物は、本当に必要なものばかりなのですか?」 「え? はい、もちろん」  ひょい、と僕が背負ったのは、大型の登山用リュックサックだ。衣服は用意しなくても良いと言われたものの、着慣れたワイシャツやスラックス、そしてトレーニングに使用しているラフなTシャツなどは持参した。  さらには、ハンドグリップや腹筋ローラーなどの小ぶりなお手軽筋トレグッズも、お守りがわりに持ってきた。  登山用リュックは、細身な僕の背中に背負うには多少大きすぎる代物だ。車の横に佇んだままの塚原の視線は生ぬるい。 「……まぁいいでしょう。とりあえず、中へどうぞ。歩きながらで申し訳ございませんが、伊月家について、基本的なことをお伝えしておきます」 「ええ、お願いします」  塚原は車庫から伸びる小径へ歩を進めがてら、伊月家についての説明を始めた。  まず、この家は伊月家別邸であり、普段ここに住んでいるのは由季央の母親と弟だけだという。  もともとはここが本邸だったのだが、ピアニストであり作曲家でもある伊月家当主・伊月龍之介が、より良い創作環境を求めて別荘地へと移り住んだため、今ではそちらが本邸扱いになっている。  伊月龍之介は現在、世界各国を公演で回っている最中だ。自身で作曲したピアノ協奏曲が世界中で大ヒットしたため、ソリストとして世界を周り、各国のオーケストラと共演するという壮大な世界ツアーをやっているとか。  てっきり、結婚をせっつく当主の前で恋人のフリをさせられるのだとばかり思っていたが、不在だという。 「……じゃあ、僕は誰の前で恋人らしい振る舞いとやらをすればいいんです?」 「主に、この別邸に住われているお二人。由季央さまの母君と弟君の前で、でございます」 「ふむ……。なぜですか?」 「……私の口からは大変申し上げにくいのですが……」  ぴた、と塚原が足を止めた。竹林の小径を抜け、別邸へ続く飛び石沿いに、竹細工の照明が並ぶ場所だった。ふと視線を持ち上げると、紺青色の夜空の下、高級旅館のごとき和風建築物が鎮座している。  重厚感のある建物のそこここを照らすのは、柔らかな黄金色。白漆喰の壁に瓦葺の屋根には趣があり、上品に設られた日本庭園はまるで絵画のように端正だ。    平屋建てだが、外から見ていても、その建物の中がべらぼうに広いことが窺われる。さすがはアルファのお屋敷だ……と、僕は感嘆のため息を漏らしつつ、沈黙したままの塚原のそばへ歩み寄り、話の先を促すように下から見上げてみる。 「由季央さまは、伊月家の血を引いておられません」 「え? いやだって、長男なんでしょ?」 「御当主、龍之介さまと奥さまは、なかなかお子に恵まれませんでした。治療を重ねて頑張っておいででしたが、それでもダメで……お二人は、ご友人のお子さまを、養子として迎えられました」 「それが彼、ということですか」 「ええ。由季央さまが五歳の頃のことです。実のご両親が事故に遭われまして、由季央さまは保護者を失ってしまいました。そして、伊月家に引き取られたのです」 「……事故」  突然の重い展開に、僕は思わず息を呑んだ。塚原は物静かな眼差しで僕を見下ろし、うなずく。 「由季央さまの本当のご両親もまた音楽家でして、龍之介さまとは親しくお付き合いしている方々でした。お父上はヴァイオリニストで、お母さまはクラリネット奏者でいらっしゃったそうですよ」 「なるほど、彼は父親の才能を引き継いだのですね」 「はい。ですが、伊月家当主夫人・伊月 貴親(たかちか)さまは、もともと養子を迎えることに消極的だったそうで」  また複雑そうな要素が加わった。僕は腕組みをし、眉間を押さえる。 「……なるほど、なるほど……」 「ですが、龍之介さまの独断に近い形で由季央さまを迎えることになり、一時はかなり険悪な雰囲気だったとか」 「……そりゃそうでしょうね」 「ですが、由季央さまの音楽的才能は目を見張るものがあり、貴親さまも少しずつ態度を軟化させていたそうです。……その矢先、貴親さまがご懐妊され、伊月家の正当な血を引く後継者がお生まれになりまして」 「えー……と」  だんだん話がややこしくなってきて、そろそろ僕の脳みそでは処理が難しくなってきた。そもそも僕は、細かいことをじっくり理解することが苦手である。  腕組みはしたまま、さらに首をひねって唸っていると、塚原がごほんと咳払いをする。 「つまりですね、貴親さまは由季央さまの存在が邪魔なんです。由季央さまも、ご自身がよく思われていないということに気づいておいでですので、海外を拠点に活動されています」 「んーーー……それならもう海外で暮らし続けて、そのまま縁を切っちゃえばいいじゃないですか」 「そうもいかないのです。表向き、由季央さまは伊月家のご長男でおられますので」 「血縁関係がないのに……」 「名門の方々は、体裁をひどく気にされますからね」  塚原は苦々しい表情でそう口にしたあと、声を低くして、僕にそっと顔を近づけてきた。 「……貴親さまは、伊月家より格上の誰かを見繕い、由季央さまをそこへ婿入りさせようと考えておいでなのです」 「あー……なるほど、政略結婚的な……?」 「ええ、その通りです。候補として上がっているのは、音楽とは無縁な家ばかりです。そうなってしまうと、由季央さまはこれまでのように自由に音楽活動ができなくなるかもしれません。由季央さまにとって、音楽的才能はご両親から受け継いだ血の証のようなもの。それを奪われることだけは、どうしても避けたいとおっしゃっておられます」 「血の証……か」  なるほど、と僕は思った。ヴァイオリニストとしての才能は、両親……特に父親のほうから受け継いだ絆だといえる。幼い頃に死に別れてしまった両親が、由季央に残してくれた大切な才能(ギフト)。それを心の拠り所に生きてきたのだとしたら……。 「つまり僕は、見合いを断るための恋人役、というわけですね」 「その通りです」 「だけど、なんで僕が? 由季央さんは美形だし、有名人なんでしょ? 彼に従いそうなオメガなんて他にいくらでもいるでしょう」 「大変申し上げにくいのですが……通りすがりに出会ったあなたであれば、後々縁を切りやすいと思っておられるのかもしれません」 「ああ、なるほど。それはそうですね」  わかりやすい回答だ。僕は納得して、深く頷く。 「こちらとしても、仕事としてお引き受けしたことですから。無事に役割を果たせたあかつきには、きっぱり縁を切らせていただきますよ」 「……お世話をおかけいたします」  穏やかそうな微笑みをたたえ、丁寧な仕草で、塚原は深々と僕に向かって頭を下げた。 「由季央さまのこと、どうぞよろしくお願いいたします」

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