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5、フリフリレース
「……なんなんだ、この服は」
僕は今、これまでの人生で一度も袖を通したことがないような、ヒラヒラした格好をさせられている。
形は、ただの白い詰襟のシャツ。だが、襟の縁には繊細なレースが施されているし、ボタンもひとつひとつが白いレースに包まれている。
全体的に透け感のある柔らかな素材で、袖口にも銀糸をあしらったレースがふんだんに施されている。なめらかな肌触りには高級感を感じずにはいられないけれど……僕は仏頂面で、じろりと由季央を睨みあげた。
「これは君の好みなのか? 25歳の男に着せようとするには、随分と悪趣味な気がするが」
と、あからさまに嫌味を言うと、サッと素早く塚原が頭を下げた。
「大変申し訳ありません。わたくしのチョイスでございます……」
「えっ……あ、あなたの趣味……!?」
「いえ、わたくしの趣味と申しますか……伊月家当主夫人・貴親さまのご趣味といいますか」
「……ああー……なるほど」
養子とはいえ、息子を排除すべく政略結婚を目論むような母親だ。どんな人物かはまだ推測さえできないが、せめて心証を良くしておこうという塚原の配慮なのだろう。
さて由季央の反応は……? と様子を窺ってみると、由季央はその場で腕組みをして、じーーーーっと僕の全身を眺め回している。僕はサッと両腕で身体を抱きしめた。
「おいっ!! す、スケベな目で僕を見るな!!」
「……はっ!? だ、誰がスケベだふざけんな! こんっな色気のないオメガ初めて見たし!!」
『スケベ』という単語がよほど不愉快だったのか、由季央は頬を軽く膨らませ、明らかにムッとしている。一部の隙もなく整ったビスクドールのような顔立ちだが、そうして微かに浮かんだ綻びが、由季央を年齢相応の青年らしく見せていた。
——まぁ、相手は年下だし……あまり余裕のないところを見せるのも癪だしな……。
僕はそう思い直すと、ごほんとわざとらしい咳払いをした。
「ま、まぁいい。これも仕事だからな」
「そうだ、これもあんたの仕事だ。せいぜい愛想よくしてろよな。無駄なことは喋んなくていいから」
そんなことを言いつつ、由季央はすこし気怠げにため息をついた。
てっきり、彼は今夜いっぱい入院しているものと思っていたが、僕が到着するより前に由季央はこの部屋に戻っていた。
外観も内装も、趣ある日本家屋のそれだが、僕が通された部屋は簡素ながらも広々とした洋間だった。壁一面の大きな窓は出窓になっており、その外には青々とした芝生の庭が広がっている。
レトロモダンという言葉が似合いの雰囲気を醸す部屋で、調度品はすべて深い飴色で統一されている。そんな中、クイーンサイズのベッドにピンと張られた白いシーツだけが、妙な存在感を放っているような気がする。
そしてこの客間の隣には、小ぶりなホールのように天井の高い洋間がある。その部屋の中心には、巨大なグランドピアノが一台鎮座しているのだ。
まだ一度も由季央の奏でるヴァイオリンを聴いたことはないけれど、この家にしっくりと馴染んだ気配を纏うピアノだった。幼い頃の由季央は、ここでスパルタ教育を受けたのかもしれない……と、幼い由季央の姿を想像したりもした。
塚原から聞いた彼のおいたちは、不憫であり厳しいものだったようだ。ここでの生活は、彼の人生においてどんな意味をなすものだったのだろう——……
と、由季央の幼少期に想いを馳せてしまえば、さすがに少し切なくなってしまう。少しばかり協力的な態度をとってやってもいいもな……などと思いかけたけれど、「なんだその大荷物。登山かよ」「私服? どーせ安もんばっかだろ」などとズケズケ無遠慮にものを言う由季央の横柄さを再確認し……僕の中の親しみゲージは、一気にゼロになった。
そして客間に通されるや、背負ってきた荷物は即刻部屋の隅へと片付けられ、塚原に言いつけられるままに着替えをさせられたというわけである。
「で、君の部屋はどこにあるんだ?」
「俺の部屋もここだけど?」
「……寝床はどうするんだ?」
「あのね、あんたは俺が連れて帰ってきた恋人なの。同じベッドで寝泊まりするのは当然のことだろ」
「……同じベッド、だと……?」
——こ、こいつやっぱり……!! 「恋人のフリ」にかこつけて、僕にいやらしいことをするつもりだな……!!
ふたたび湧き上がるセクハラ妄想に、腹立たしさと危機感を禁じ得ない僕である。だが、こんなことで動揺を見せては足元を見られるだけだ。じろりと由季央を睨みつけ、僕はつとめて冷静な声で抗議をした。
「依頼人とボディガードがひとつのベッドで寝泊まりだなんて、そんな話聞いたことがない」
「実家に連れて帰ってきた『恋人』と別々の部屋とか、おかしいだろ」
「だがしかし! 実家という厳粛な場で、まだ番ってもいない恋人とひとつのベッドで過ごすなんてふしだらだ!」
「真面目か」
「それに、君には自分の部屋があるんだろう! 僕のことは気にせずのんびり自室で過ごせば……!」
「実家っちゃ実家だけど、もう俺の部屋なんて残ってねーの」
「ええっ……?」
さらっと寂しいことを言ってのける由季央の態度に、どういう反応を示せばいいのか分からなかった。僕が困惑顔で言葉を選びかねていると、由季央はちらりと塚原を見たあと、はぁ、と小さくため息を漏らす。
「……聞いたの? この家のこと」
「ああ……うん。まぁ、必要な情報だし」
「ったく。余計なこと言うなって言ったろ」
そう言って軽く塚原を睨んでいるものの、その視線に棘はない。塚原はドアの脇で深々と頭を下げ、そのままそっと部屋を出て行った。
「それに……なんつーか、いいんだよ別に。ここにいつまでもいるつもりないし」
「ああ……海外を拠点にしてるんだったな」
「そ。俺は今回、あんたを家族に紹介して、あんたと番うって宣言して、もうここには戻らないってことを報告しにきたんだ」
「……なるほど」
「まぁ、もう二、三件、ちょっとこっちで用事もあってさ。それもあんたには付き合ってもらうけど」
由季央はベッドに腰を下ろし、ちょいちょいと人差し指で僕を呼ぶ。ペットでも呼ぶかのような仕草に腹は立つが、数歩のことなのでぐっとこらえ、僕は由季央の前に立った。
すると、襟のまわりでもたついていた細長いレースを、白く長い指がそっと持ち上げる。由季央は丁寧な手つきで、レースをきれいな蝶々結びにした。
そうして由季央が少し身じろぎするだけで、なんだかいい香りがする。そして相手が座っているので、端正な顔がすぐそこだ。
やはり、見れば見るほどに美しく整った美形である。縁が切りやすいからという理由で僕を選んだようだが、これだけの美貌を持ち、しかも音楽的な才能を備えたアルファだ。本当に番いたい相手との出会いくらい、とっくに済ませていそうなものなのに……。
「君は、恋人はいないのか?」
「……え?」
「君の顔はすごく整っていると思うし、有名なヴァイオリニストなんだろう? モテないわけがないと思ったんだが」
「ま、モテるけど。……どうでもいい相手にモテてもね」
なにやら含みのありそうな口ぶりと、表情である。
僕をつと上目遣いで見上げる瞳の色は、照明によってほんのりと色味を変えるらしい。昼間は紫がかったサファイアを連想した瞳は、今はどちらかというと黒に近い。深みのある青色だ。たとえるならば、ブラックダイヤモンドのような——
強い眼差しを間近で受け止めてしまうと、視線を外せなくなってしまう。すると由季央は小首を傾げ、にっと不敵に笑ってみせた。
「そういうあんたは? オメガってさ、オメガってだけでモテるんだろ?」
「そういうのを偏見って言うんじゃないのか? 僕はこれまでモテたことがない」
「え、そうなの?」
「友人のオメガは色っぽくてモテモテだったけど、僕にはボディガードになるという人生の目標があった。だから忙しくて、それどころじゃなかったんだ」
「へぇ」
そういって胸を張るも、ヒラヒラレースの服を着せられているので格好がつかない。
「ま、確かに強かったもんな、あんた」
「あー……まぁ、あの時は必死で。通行人のことを意識できなかったのは、僕の落ち度だ。本当にすまなかった」
「いいよ、別に。……この家にいると、ヴァイオリンに触りたい気分じゃなくなるしな」
由季央の視線の先には、コンソールの上に置かれたヴァイオリンケースがある。どことなく親しげな、ぬくもりのある眼差しだった。触りたくないと言う割に、ケースの蓋は開いている。僕が到着するまでの間、手入れか何かをしていたのかもしれない。
複雑な家庭環境というものにはさほど縁がなく、心身ともに健やかに成長してきた僕だ。由季央の感情については、想像することさえ難しい。だが、こうして楽器を愛おしげに見つめている横顔を目の当たりにしてしまうと、やはりここは、一肌脱いできっちり手助けをしてやらねばという気持ちになってくる。
「……さっきから気になってたんだが、僕には『春記』っていう立派な名前があるんだ。あんた呼ばわりはやめてもらおうか」
「ああ……うん。それを言うなら、俺にも『由季央』っていう名前がある。年上ぶって『君』とか呼ばれると、背筋が寒くなる」
「なるほど、了解した。由季央……くん、がいいか? それとも由季央、さん? ……うーん、由季ちゃん?」
「おい、ゆきちゃんは絶対やめろ」
どう呼べばしっくりくるかと、口の中でもごもごと試していると、由季央が突然、ハッと何かを察知したような表情をした。
何事かと問おうとした瞬間、ぐいと強い力で腕を引かれ……気づけば、フカフカのベッドに押し倒されている。
と同時にコンコンッ! と素早いノックの音が部屋に響き渡り、さっと客間のドアが開いた。
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