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7、警戒心とは〈由季央目線〉

   ——オメガって……こんな感じなのか……。  俺は、ベッドに寝そべり天井を見上げていた。  ぺったりと左肩にくっついて眠っている真山春記のぬくもりを感じながら……。  ——……てか、なんでこんなひっついて寝てんだよ……。  ほんの小一時間前、「君はそっちがわの隅っこで寝ろ。僕はこっちだ」と言い、クイーンサイズのベッドの端と端で眠りについた。  といっても、俺は小柄なほうじゃない。横たわればそれなりに幅は取る。だが春記は律儀に隅っこギリギリで、しかもこちらに背を向けて横になり……そしてものの数分で、本格的な寝息を立てていた。「訓練のおかげで、僕はどこでだって眠れるんだ」というセリフは伊達ではないらしい。  だがそこからが問題だ。  春記は居心地のいい場所を探すように何度か寝返りをうち、俺のすぐそばまで転がってきた。そして今は、俺の左腕にぴったりとしがみつき、ぐうぐう余裕で眠っている……。 「んん……」  当然、こいつに手を出すつもりなど毛頭ないが、抱き枕扱いを受けながらひとつの布団に横たわっていれば、多少は意識せざるを得ない。  ふんわりと春記から漂う仄かな香りは、これまでに嗅いだことのないほどに涼やかに甘い。人肌から長く遠のいていたこともあり、春記から伝わってくるぬくもりが、徐々に心地の良いものへと変化しているような気もする。 「ううー……ん」  だが、寝相の悪さには閉口する。  もぞもぞとさらに寝返りを打とうとするものだから、春記の身体が俺の上に乗り上げそうになっているのだ。  仕方なく、俺は春記の首の下に腕を通して、腕枕をしてやった。よほど座りが良かったのか、春記はようやくおとなしくなった。  すっぽりと腕の中に収まるサイズだ。腕に抱いた肩は、見た目よりもずっと華奢に感じる。口と態度は大きいが、こうしていると、やはりこいつはオメガなのだなと思わざるを得ない。  ——派手に大立ち回りしてた割に、意外と細いんだな……。  ふと、空港での春記の姿を思い出す。  俺はあのとき、義理の母である伊月貴親からの面倒な電話を受けていた。  静かな車内で貴親と話す気になれず、塚原を待たせておき、騒がしいエントランス付近で適当に相槌を打っていたのだ。  アイドルグループが歩いている姿を見るともなく眺めながら、見合いの話をどうはぐらかそうかと考えていた。  誰か代役を立てるべきか……とは以前から考えていたけれど、知り合いのオメガの友人たちの顔を思い浮かべても、ぴんとくる相手がいない。  しかも、彼らはもれなく良家のオメガ。それぞれすでに許嫁がいたり、有名人だったり……と、適当に「恋人のふり」を手伝ってもらえるような存在ではなかった。  そうして多少途方に暮れていた俺の前で、いかにもアブなそうな男が喚き始めたのだ。「警察に連絡をしたほうがいいだろうな」と思った次の瞬後、春記は颯爽と俺の視界の中へ躍り出てきた。    迷いもためらいもない、俊敏な身のこなし。訓練された的確な動きには無駄がなく、まるで舞のように滑らかな動きだった。  あっという間の出来事だが、俺の視線は春記に釘付けだった。  さっき望に「かっこいいだろ」と言ったのは、俺の本心だ。  小柄で痩身な男が、自分よりも大きな相手を華麗に打ち倒す姿は、純粋にとてもかっこ良かった。  だが、そうして見惚れてしまったが故に、春記が苦し紛れに繰り出した飛び蹴りに巻き添えを食った。  吹っ飛んできた男を受け止めきれず尻餅をついてしまったが、それよりも春記のことが気にかかった。彼もまた、地面に倒れ伏してしまっていたからだ。  だが、大騒ぎしたのは貴親だった。ちょうど電話中だったこともあり、彼はすぐに俺を病院へと直行させた。  その行動は決して、貴親が俺の怪我を心配したから、というものではない。  伊月家の繁栄を世に示すためのツールである「俺の手首」が、何者かによって傷つけられたという事実に、貴親は憤慨したにすぎないのだ。  だが、貴親のお節介のおかげで、俺は春記と顔を合わせることができた。  しかも、あの勇ましい男がまさかオメガとは。  身体を張る仕事をしているくらいだから、彼はベータだろうと想像していた。  だがこれこそ天の助けだ。降って沸いたこの繋がりを、決して無駄にするわけにはいかない——  ちら、と俺は改めて、春記の寝顔を見下ろしてみた。  起きている時の春記は、360度どこから見ても愛想のないオメガだ。だがこうして腕の中で安らかに眠っている無防備な表情は、多少は可愛らしく見える。  風呂上がりにチラリと見た春記の背中は、ほっそりとしなやかな筋肉に覆われていた。  しゃんと伸びた背筋に、きゅっとくびれた腰回りは引き締まり、今すぐにでも悪漢を叩き伏せてしまえそうな、独特の緊張感の漂う背中だった。  オメガは皆細っこくて頼りない身体をしているというイメージがあるのだが、あの俊敏な逞しさを現すように、彼の努力を裏付けする強靭さが備わっている。  だが、首筋に巻きついたネックガードを目にした時は、何だか少しどきりとした。  もっと征服欲の強いアルファなら、こういう場合どうするんだろう……と、ふと思う。春記が言うように、「恋人のフリ」にかこつけて、春記に手を出したりするのが普通なのだろうか。  俺の知るアルファたちは音楽家がほとんどで、比較的大人しめで紳士的なタイプが多い。けれど、世のアルファたちは皆ひそやかに獰猛で、支配的な一面を隠し持っているものだ。  俺とて、セックスの経験がないわけではない。  高校時代、なかば押し切られるような形で付き合っていた先輩は男性型のアルファで、同じヴァイオリン科の生徒だった。許嫁と番うまでの間の息抜きという名目で、俺は彼と二年ほど交際していた。  セックスも教わった。挿れて欲しいと懇願され、俺は初めての行為を彼に捧げたのだった。快楽はあったけれど、俺はさほどその行為自体にのめりこむことはなかったし、先輩への関心が強まることもほとんどなかった。  だが、その才能には惹かれる部分が多かった。家庭環境のことで燻りながらヴァイオリンを弾いていた俺の尻を叩き、環境など言い訳にせず、どんどん高みを目指すべきだと励ましてくれたのはその先輩だった。  セックスの後、裸でヴァイオリンを奏でる彼は素晴らしく美しかったし、教わることもたくさんあった。恋人、というよりも、どちらかというと師匠……と呼びたくなる相手だったと今では思う。  その付き合いが終わった後は、俺はまたひとりになった。  海外の音楽大学へ進学し、そこで修行に明け暮れていたため多忙だった。才能を認められるようになってからは、ただひたすらに音楽に向き合う日々。忙しくて色恋に割く時間はほとんどなかったけれど、俺はそれで幸せだった。  だが、唐突に降って湧いた後継と、見合いの問題。  いつもいつも、こっちの都合はお構いなしに物事を進めていく伊月家のやつらへの苛立ちは募るばかりだ。  俺がため息混じりに眉間を押さえていると、腕の中でもぞりと春記が身じろぎをした。とろんとした眼差しで間近から見つめられ、少なからずたじろいでしまう。接近してきたのは春記のほうだが、またスケベ野郎と罵られるかと思ったのだが……。 「……まだ起きてたのか……」  意外と大人しい口調で、春記はごしごしと目を擦っている。夢とうつつの狭間にいるかのような、ぽうっとした目つきだ。ついさっきまではキッと凛々しかった上がり眉はハの字に近く、気の抜けた眼差しは思いのほか幼く見える。  どうせ寝ぼけているのだろうと思い、俺は素直に頷いた。 「ちょっと考え事」 「そうか……どんなこと?」 「どんな……ねぇ」  ——まぁ、寝ぼけてんなら……いいか。  俺はちらとそう思い、包帯の巻かれた右手を天井に掲げてみた。 「どうやったらこの家と縁切れんのかな〜……ってこと」 「……縁、か」 「身寄りのなくなった俺を育ててくれた恩はある。……けど、望が生まれて俺が邪魔になったんなら、その時にさっさと俺を他所へやればよかったのにって思うんだ」  だが、「友人の子」を引き取って育てているという美談はすでに社交界にも広く流れていて、今更俺を放り出すことなどできなかった。  目の前で可愛がられ、甘やかされる望を前に、俺は厳しいレッスンに明け暮れた。コンクールなどで結果を出さなければ、「この家を追い出す」と脅かされた。幼い頃は、また一人になってしまうのが恐ろしくて、死の物狂いで努力して、努力して……とても、孤独だった。 「……ま、俺には才能があったからな、それは運が良かったと思う。本当の親に感謝だな」 「才能か……素晴らしい贈り物だ……」 「そのぶん、望は成長するにつれて、この家にいづらくなってるみてーだけど。それなりに上手く弾けるだけじゃ、認められない世界だから」 「……んー……僕には全くわからないけど……」 「そりゃそーだろ。あんたはド素人なんだし」 「……失敬な」  ぶすっとした声だが、春記は俺から離れてゆこうとはしない。それどころか、すんすんと俺の匂いを吸い込むように鼻を寄せ、すり……と額を擦り付けてくる。  ——近ぇ……。脚、絡んでるし……。  塚原の準備したパジャマは着ず、持参したトレーニングウェアとハーフパンツという色気のない格好で眠っている春記だ。弾力のある脚の感触が内腿に触れ、さすがの俺も落ち着かない。  こちらから距離を取るべきかと迷っていると、する……と伸びてきた春記の手が、ぽん、と頭の上に乗った。  二度、三度と軽く頭をぽんぽんされ、これは一体何のつもりかと首を傾げそうになったのだが……。 「きみは、がんばりやさんなんだな……」 「えっ……。……は?」 「小さい頃から、ひとりでよくがんばった。……えらい、えらい」 「なっ…………な、な、なん、なんだ、それ」  ぎょっとなって春記を見下ろすと、ふわりと無防備な笑顔が間近でほころぶ。  これまでの人生において、亡き両親以外の誰かにこんなことをされたことは一度もない。呆気に取られつつも、なんの他意もなく俺の努力を丸ごと認めるような春記の眼差しに、胸を鷲掴みにされる。  そして情けないことに、鼻の奥がつんと痛んで、少しだけ泣きたい気持ちにもなり……。 「うー……ん……ぐぅ……すぅ……」 「…………って、寝てるし」  俺の頭を撫でた腕はそのままだらりと力をなくし、完全に上半身に抱きつかれるような格好で落ち着いてしまった。そのまま深い眠りについたらしい春記の肩を抱き直し、俺はひそかに鼻を啜った。 「……つか、重いし」  絡みつく春記の重みに悪態をついてみるものの、俺の唇には、わずかに微笑みが浮かんでいる。

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