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8、朝の一幕

「……うわっ、兄さん。どうしたんだよその顔」 「うるさい」  そして次の日の朝。  頬をやや赤く晴らし、ブスッとした表情の由季央とともに、僕は伊月家の朝食の席へとやってきた。    伊月家の……といっても、その場にいるのは望だけだ。今日こそ由季央の母親である貴親なるものに出くわすかと思っていたが、その姿はここにはない。  望はいかにも賢げなブレザータイプの制服に身を包み、まるで料亭の朝食が如く端正に盛り付けられた膳に箸をつけている。  だが、向かいに兄が座り、その隣に僕が腰を下ろすと、ジトっとした眼差しを向けてくる。いかにも疑わしげな目つきである。  ——あっ……そ、そうか。仲睦まじい姿を見せつけないといけないんだった。……ええと……。  昨晩言われた、「由季央のことが好きで好きでメロメロのベタ惚れで、偉ぶったあいつらになにを言われても、絶対に俺とは別れたくないって感じの演技」をしなければならないのだと思い出し、僕はぎこちない笑みを浮かべつつ、望に向かってこう言った。 「……き、君の兄貴が朝からやたらと積極的に迫ってくるから、つい手が出てしまったんだ」 「はっ? 迫っ……?」  それを聞いた途端、望の顔がかぁぁぁと赤く染め上がり、隣で由季央がため息をついている。    いかにもモテまくってそうな美形アルファだが、彼はまだ高校生だ。ちょっと刺激的すぎただろうか。  だが、望はごほんと咳払いをして、ふたたび疑わしげな眼差しで僕を睨みつけてくる。 「ふ、ふーーん……あ、朝から……ね。というか、あんた兄貴と付き合ってるんだろ? 迫られたくらいで引っ叩いたりするわけ?」 「えっ、そ、それは……」  別に変なことをされたわけではない。  とてもとても心地よく、身体中が深くとろけてしまいそうに安らかな眠りだった。  普段僕は、いついかなる呼び出しにでも対応できるようにと、硬いソファで寝起きしている。自宅にベッドはない。  なので昨日は、フカフカの気持ち良いベッドに密かに感動していたのである。  柔らかすぎず硬すぎず、疲れた身体を優しく包み込むマットレス。シーツはさらりと清潔で、素足をもぐりこませると、肌をひんやりと包み込んでくれる。  空調も適温に保たれていて、屋外の蒸し暑さなど忘れてしまいそうなほどに快適だった。  ただ、枕だけが少し柔らかすぎて、いまいち座りが悪かったのだ。いつもは硬い肘掛けに頭を乗せて眠るので、首の角度などが落ち着かない。だが、昨日は怒涛の一日であったため、身体はぐったりと疲れていた。  そして気づけば、とろとろとした眠りに誘われ、気づけば朝になっていた。  脚に絡みつくすべすべの誰かの脚。僕の全身を包み込む誰かの体温。そして、心地よく温もったかけ布団の匂いと混ざり合う、涼やかで優しい香り……。  ぱち、と目を開くと、目の前に由季央の寝顔があった。こちらに頭を倒し、長いまつ毛を伏せて静かな寝息を立てる由季央の寝顔だ。  僕の首の下には由季央の腕があり、絶妙な高さと硬さでジャストフィットしている。  これはなんの夢かとぼんやり寝顔を眺めていると、ゆっくりと、美しい紫がかったサファイアの瞳が開かれる。彼もまた寝起きの眠たげな目つきをしていたのだが、僕が起きていることに気づいたらしく、二度三度と瞬きをした。  首の下を通っていた腕が微かに動き、間近で見つめあったままの状態でふわりと髪に触れられて——……  そのくすぐったい感触に対する過剰反応か、僕は「うわぁぁぁ!!」と悲鳴を上げつつ由季央の頬を突っ張ってしまったのである。  眠っていた位置や姿勢を見れば、僕がゴロゴロ転がっていった挙句由季央に抱きついて眠っていたという状況は明らかなのに、またしても由季央を傷物にしてしまった。……我に返った後、平謝りをしたのは言うまでもない。  ……といった朝の一幕を、望にそのまま伝えるわけにはいかない。  僕はぎこちなく微笑んで、ちら、と由季央の方を盗み見つつこう言った。 「ふ、普段はいいんだけどここは由季ちゃんの実家だからな! 神聖な実家でそんなふしだらなことは……」 「由季ちゃん?」  僕が早口に捲し立てた台詞を、望が不愉快げな顔つきで遮った。そして同時に、隣で味噌汁を口にしていた由季央がぶぼっと咳き込んでいる。 「っ……おい! 由季ちゃんはやめろって言っただろ!」 「あ」 「……へぇ……ふーん、由季ちゃん、ねぇ……。なんかガッカリだな、ストイックな兄さんがそんな……そんな、バカなカップルみたいにこの地味オメガといちゃついてるなんて…………」  ハァ〜〜〜〜〜……と長い長いため息をつきながら、望は軽蔑の眼差しで僕を睨み、そして兄を見た。 「……兄さん、どうしちゃったっていうんだよ! まさか、こっんな地味なオメガに骨抜きにされてるのか!? 情けない!!」 「あー……まぁ、そうなんだよな。あははっ……母さんには言うなよ」 「嘘だろ……クールでカッコいい兄さんがそんな……っ!!」  と、小声で言いかけて、望はハッとしたように口をつぐむ。そして、ごほごほんとわざとらしい咳払いをしたあと、キリッとした顔を見事に作り上げ、居丈高な口調でこう言い放つ。 「伊月家の長男のくせに、情けないと思わないのか!?」 「……いやいや、俺のプライベートと、この家は何も関係ねーだろ」 「そ、そうかもしれないけどっ!! 由季ちゃんて……お前ごときが兄さんをそんな、そんなっ……」  どこまでも冷静な表情を崩さない由季央と、ぐぎぎぎと奥歯を噛み締めて顔を歪ませている望。  望の表情や態度やセリフには、兄を慕う気持ちが全く隠しきれていないと言うのに、由季央の態度はあまりにも冷たすぎるように見える。  僕はそっと由季央の腕に触れ、ゆるゆると首を振った。 「由季ちゃ……由季、そんな怖い顔で睨むのは良くない。望くんが可哀想だろ」 「べっつに、睨んでなんかねーだろ」 「睨んでるよ。君も兄なら、もっと弟をきちんと可愛がって、」  と言いかけたところで、バン!! と望が机を叩いて立ち上がった。  ギョッとしてそちらを見ると、らんらんとした怒りを滾らせた目で、ギロリと鋭く睨みつけられる。……朝から睨まれてばかりである。 「誰が可哀想だって!? ふざけんなよ! お前なんかに憐れまれるほど、僕は落ちてないんだからな!!」 「えっ。いや、僕はそういうつもりじゃ……」 「僕は認めないからな!! お前みたいな下等なオメガが、兄さん……伊月家の一員になるなんて許さない!!」 「望!」  そう言い捨てて、望は荒々しく襖を開け放ち、足音もけたたましく朝食の席を後にした。  しーん……と、嫌な沈黙が満ちる和室に、鹿威しの雅な音色が虚しく響く。 「……ごめん」 「えっ……? な、何が」  唐突に謝罪の言葉が聞こえてきて、僕はまた面食らってしまった。ばつの悪そうな顔をした由季央が、小さく頭を項垂れる。 「……下等とか、ひでーこと言った。ごめんな」 「え? いや、僕は気にしてないけど」 「親の影響もあると思うけど、あいつ、家のランクで人のこと判断するとこがあって……ガキの頃からそうなんだ」 「あ、ああ……そうか。けどまぁ、僕は君らに比べたら確かに地味だし、肉体労働だし、ただの一般家庭の出だ。君らの家柄とレベルを張り合えるわけも……」 「そんなことねーよ。それでも俺は……っ」    真摯な眼差しで不意に見つめられ、突然のことに驚いたせいなのかなんなのか、胸の奥のほうからキュンと変な音が聞こえてくる。  だが由季央ははたと口を閉じ、ぷいと目線を外してしまう。 「えーと……だからその。弟の非礼については、本当に、申し訳なかったな、と……」 「あ、ああ……うん」 「まぁ食おうぜ。今日はこのあと一緒に来て欲しいところがあるからな」 「う、うん……分かった」  ——意外と律儀なところがあるんだな。家柄のことなんて、僕にとってはどうでもいいことなのに……。  もくもくと食事を取り始めた由季央の横顔をそっと見つめながら、僕も出汁の香り豊かな味噌汁に口をつける。  思わず一気飲みしてしまうほど美味しかった。

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