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9、褒めて伸ばす

 黒いタキシードに身を包んだ由季央が、オーケストラを背に飴色のヴァイオリンを抱いている。  これまでの人生において、クラシックに関心を抱きつつ音楽に耳を傾けた経験など一切ない僕でさえ耳にしたことのあるメロディが、由季央の全身から放たれている。 「由季央さまの恋人となられる方ですので、演奏するお姿も見ておかれた方が良いかと」と塚原に進言され、移動中の車内でタブレットを使い、過去のコンサート映像を見ることになったのである。  演奏の上手下手は、正直僕には分からない。だが、堂々とした姿でオーケストラの中に立ち、真剣な表情でヴァイオリンを奏でる由季央の姿に、僕は見惚れた。  鷲鼻の西洋人指揮者と視線を交わし、時折唇に浮かべる微笑であるとか。  旋律に身を委ねながら弓を引くたび、綺麗にセットされた髪の毛のひと房が乱れ、その表情をより色っぽく見えるところであるとか——音楽に身を委ねる由季央は、とても幸せそうな顔をしていた。  曲調が変わり、テンポが速くなる。より勇ましく、華やかなクライマックスへと駆け登ってゆく緊張感の中、由季央は挑みかかるような眼差しで指揮者と頷き合い、驚くほどの速さで動く指で圧倒的な音楽を紡ぎ出す。  鋭さと怜悧さが兼ね備わった美貌に浮かぶ恍惚と興奮。時折視線が天井へと向けられるたび、スポットライトを受けてきらめく瞳。画面から溢れ出す美しく迫力あるメロディ——……僕は言葉を忘れて、映像に見入っていた。  勇壮なラストを締め括る音の洪水がピタリと止んだ数秒後。ホール内には、会場がはちきれんばかりの拍手と喝采に満ちる。  心から満足げな笑顔を浮かべた由季央はヴァイオリンを顎から外して両手を広げ、観客らの興奮と祝福をその全身で受け止めているように見えた。  こんな表情もするのかと驚かされるほどに、清々しく晴れ渡るような美しい笑顔だ。白い肌に玉のような汗を浮かべながら由季央は深々と綺麗に一礼し、指揮者と固い握手とハグを交わす。  鳴り止まない拍手を浴びながら微笑みを浮かべる由季央の瞳は鮮やかにきらめく。音楽を愛し、愛されるその姿を目の当たりにして、僕は無意識にぎゅっとシャツの胸元を掴んでいた。  ——……すごいな……これは。  ただの不機嫌で腹黒い年下アルファだと思っていたけれど、由季央は本当に、才能を認められた一人のヴァイオリニストなのだと、初めて実感した。  どこか呆然とした顔のまま、隣で車窓を眺めている由季央の横顔を見やる。つんと澄ましたような表情だが、車内が音楽で満たされている間は、心なしか口元がかすかに綻んでいるように見える。  ——改めて……怪我を負わせてしまったことに責任を感じずにはいられないな……。  由季央の右手首にはまだ白い包帯が巻かれている。日常生活で支障が出ている様子はないけれど、今後の音楽生活にいかほどの影響が出るのだろう……。 「……な、何だよ?」 「えっ」  僕の視線に気づいた由季央が、訝しげにこちらを見た。よほど変な顔をしていたのかもしれない。 「あっ……いや、すごいんだな、君は……」 「それはどうも」 「僕は、クラシックのことは全く分からないけど……迫力があって、ド派手で、すごくかっこいい曲だった」  まだどこか余韻にしびれたような頭で、僕はとつとつと由季央にそう感想を伝えた。  ……が、我ながら語彙力も何もあったものでもない、拙すぎる感想だと呆れてしまう。いまどき、小学生でももう少しマシな言葉でこの感動を伝えるだろう。またバカにされるに違いないと、僕は内心げんなりしかけた。  だが意外なことに、一瞬きょとんとしていた由季央の顔には、照れ臭そうな笑顔が広がってゆく。僕のほうこそきょとんとしてしまう。 「ははっ、ド派手でカッコいいか。そーだろそーだろ」 「あっ……、うん。これを生で聴いたら、さぞかしすごいんだろうなと……」 「そりゃ、映像とリアルとじゃ全然違うしな。この茶番が終わったら聴きに来いよ、招待してやる」 「あ、ありがとう」  窓に肘を置いたまま、由季央はいつになく機嫌のいい笑顔でそう言った。  言葉の端端から滲む自然すぎる上から目線が鼻につくものの、あの稚拙な感想で随分と喜んでもらえたものだと嬉しくなった。  褒められて素直に喜んでいる由季央は可愛いものだ。あれだけの素晴らしい演奏をこなしているヴァイオリニストならば、もっとすごい評論家や音楽家仲間からも高評価を得ているに違いないのに。  僕がそんなことを考えていると、由季央はふとハッとして、喜んでいたことを恥じるように咳払いをした。 「ま、まぁ……招待されても、あんたはクラシックなんて聴いてても眠くなるだけかもしんねーけど」 「はっ? どういう意味だそれはバカにしてるのか!? そりゃ確かに僕は音楽方面には疎いけど……!」 「いやいや、バカになんかしてねーって。人の話聞けよ」  反射的に拳を握っていきりたつ僕である。すると由季央は頬杖をついたまま、ため息混じりにこう言った。 「クラシックコンサートってすげぇ長いんだよ。慣れないやつが聴いてても、どうせ途中で退屈になるだろうし」 「長い……そうなのか?」 「協奏曲……っつっても分かんねーか。一曲四十分くらいのなんてザラだしな」 「そ、そんなに長いのか!?」  今見せられたコンサート映像の長さを見てみると、確かに画像下部の表示には「33分」の文字がある。だが、すっかり由季央の姿に魅入らされ、緩急のあるメロディーに聞き惚れていたこともあって、そこまで長いと感じなかった。 「まぁ……曲に飽きたら、由季の顔を眺めてればいいだろ」 「え? 俺の顔?」 「うん。ヴァイオリンを弾いてるときの由季は、すごくかっこよかったし」  そう口にしたあともタブレットに目を落としていた僕だが、妙に車内が静かなことを怪訝に思い、顔を上げた。  見れば、由季央は頬をほんのりとを赤く染め、ちょっと怒ったような顔でこちらを見ている。……また何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。 「あれ……ヴァイオリニストの顔を見て暇つぶしをするってのは、クラシックコンサートのマナーに反するのか?」 「えっ? ……べ、べつにそんなの個人の自由だし。勝手にすりゃいーんじゃねぇの」 「……? おい、君はなにを拗ねてるんだ」 「は? 拗ね……? いやいや拗ねてねーし」  どこからどう見ても不服げな由季央の腕を掴んで、僕はぐいと詰め寄った。すると、触れられたことに驚いたように、由季央の身体が小さく跳ねる。 「僕には音楽家の微妙な心情がよく分からない。はっきり言ってくれないと困る」 「べつにそんなのどうでもいーだろ」 「よくないよ。茶番とはいえ、僕らは恋人同士なんだ。僕には、君の感情をきちんと理解する義務がある」 「義務、って……いや、そんな重く捉えなくてもいいし」 「いいから言え。すっきりしないだろ!」 「うぐっ……や、やめろ、離せバカ!」  気づけば手が出て、由季央の胸ぐらを鷲掴んでしまっている。だが由季央は負けじと僕の手首を掴み、なかなかの腕力で押し戻してくるのだ。  ——こ、こいつ……馬鹿力だな……ッ!!  と、押し負けかけて負けん気に火がつきそうになったが、ふと目に入るのは包帯の白だ。  反射的に手を引いてしまい、そのまま由季央を引き寄せるような格好になってしまう。すると当然、由季央は僕の方へと身を乗り出さざるをえなくなり……。  高級な革張りシートで壁ドン(シートドンか)をされるような姿勢になってしまった。吐息が頬を掠めるほどに由季央と近づき、思わず僕の呼吸も止まる。 「……」 「……」  見つめ合うこと数秒。由季央はかぁっと頬を赤く染め、パッと素早く僕から離れた。思いがけず初々しいような表情を目の当たりにしてしまうと、胸の奥を柔らかな羽毛でくすぐられるような感覚を覚えてしまい……。  不慣れな感情を追い払うように、僕は素早く頭を下げた。 「ご、ごめん……」 「いいけど、手癖悪すぎ」 「すまない。なんだかすごく、もどかしくて」 「……」  さすがに申し訳なさを感じて謝罪すると、隣から小さなため息が聞こえて来る。由季央はジャケットの襟を正しつつ、まだほんのりと赤い頬のまま僕を見た。  そしてひとつ息を吐く。 「そんな知りたがるほどのことでもないと思うけど……う、嬉しかったんだよ」 「え? 何が?」 「何って……! 俺が弾いてるとこ、か、かっこいいって言ってくれたからに決まってんだろ!」 「へ」  意外な答えに、呆けた声が出てしまう。  由季央はまたつんと前方を向いて姿勢を正し、今度こそ不機嫌そうな顔である。  照れ隠しの怒り顔だと、何故だか今はすぐに分かった。するとなんだか恥ずかしくなってきてしまって、僕の頬まで熱く火照ってしまう。  ——僕なんかに褒められたくらいで、そんなに喜んでくれるのか……?   自分の言葉ひとつで変化する表情のひとつひとつが、なんだか無性にいじらしく思えてしまう。  だがふと、こんな思考も頭をよぎる。  ——そうか。あの居心地悪そうな家で育ったんだ。よほど褒められ慣れてないんだな、かわいそうに……。  ならば、偽物の恋人でいる間くらい、由季央のことをしっかり褒めて甘やかしてやろうと僕は思った。  相手はアルファだが、三つも年下。不憫な生い立ちの中、強く生きてきた健気さを思うとほってはおけない。  期間限定だが、自分がしっかり支えてやろう——僕は内心拳を硬くする。 「由季」 「……えっ? な、なんだよ」 「クールぶってないで、僕にはもっと甘えてもいいんだからな。いくらでも褒めて伸ばしてやるからな!」 「……は? 何言ってんの? キモ」  由季央に心底嫌そうな顔をされてしまったところで、塚原が静かに車を停めた。

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